新着情報

-1.11.30
2023-01-吉日 ホームページを開設しました         (https://www.jihi.jp)

1 僧侶派遣・慈悲の会(曹洞宗)

◎法要内容等

〇通夜、葬儀(二日)(戒名・読経・法話・お膳料・お車代・心付け)―12万円

〇一日葬(戒名・読経・法話・お膳料・お車代・心付け)ー7万円

〇火葬式(直葬)(戒名・読経・お車代・心付け)――――4万円

〇一般法要等(読経・法話・お車代・心付け)――――――万円

◎派遣エリア

東京23区、千葉県、埼玉県、神奈川県、長野県(長野市・千曲市)

◎依頼先(お問い合わせ)

慈悲の会(曹洞宗) (携帯電話:090-1218-3785)(08:00~20:00)

          (固定電話・fax兼:047-433-9373

(メール:yamadera24@jcom.zaq.ne.jp

◎法要依頼書ダウンロード
法要希望者は、下記をダウンロードしてください(送付先も記載されています)。
PDFファイル( 法要依頼書)

2 自著販売

◎山寺邦道『死生観』パレード社

概要紹介:本書は、第一部妻の死、第二部得度、第三部死生観から構成されている。
第一部では亡き妻の悲嘆と無念さを著者が時の経過によって風化させずに心に焼き付ける想いから、亡妻の闘病生活を中心に記述したものでる。また第二部の得度は、日本仏教七宗派のうち僧侶になるのが最も厳しいとされる曹洞宗の禅僧を目指して、古希をはさみ著者が修行した経過等について論述し、更に第三部では、第一部と第二部を踏まえた上で死生観を様々な観点から参究したものである。
「この世に絶対かつ平等なものがたったひとつある。それは死である」ー愛妻を亡くし、僧界に入った老禅僧が死生観を参究する―
                                                       (2021年4月電子書籍化)

(1800円=定価1600円+消費税+送料)

◎山寺邦道編著『死への準備』パレード社

概要紹介:本書は、二部構成となっており、第一部は死への準備、第二部は僧侶の任務である。
僧侶の職務は端的にいって二つあると考える。それは悩み苦しんでいる人々の心を救済すること、もう一つは死者に引導を渡す等仏事を執り行うことである。前著『死生観』は、出版後多数の読者からの温かいご感想を頂いたが、それらのご所見等をも踏まえ、第一部では、死をめぐる主要問題について様々な観点から考察し、また第二部では、昨今の葬祭業務のほとんどすべてを取り仕切っている葬儀社といえども犯すことができない僧侶の大切な任務である戒名授与と葬儀・読経等について解説したものである。
「よく生きることは、よく死ぬことであり、よく死にたいと思うならよく生きることである」   (2022年10月電子書籍化)

1700円=定価1500円+消費税+送料)

◎山寺邦道編著『禅』パレード社

概要紹介:本書は、禅なかんずく坐禅の概要等を総括的に理解するためにまとめたものである。
本著は禅に関するある程度の基礎知識をお持ちの読者を対象にまとめたものであるが、仏教の専門用語や禅特有の言語に加えて人名等当用漢字にない読解困難な文字が文中に散見されているので難解な印象を持たれる読者が多いと思われる。したがって、少しでも読者が興味を持って理解していただけるように禅語の紙面を多く取るとともに禅に関する故事を本書の全面に散りばめてある。
読者が本書を通読され、広義の禅(坐禅)思想の概念の一端でも理解していただければ幸いである。
「禅は仏の心であり、坐禅は禅の象徴である」(2024年電子書籍化予定)

(1700円=定価1500円+消費税+送料)


◎依頼先(お問い合わせ)

慈悲の会(曹洞宗)(固定電話・Fax兼:047-433-9373

(メール:yamadera24@jcom.zaq.ne.jp


死生観
死への準備

3 揮(き) 毫(ごう)

◎掛軸等の揮毫請け合い(揮毫僧侶山寺邦道は高等書道師範)
掛軸・額・帖・巻子・扇子・短冊・色紙等の揮毫

◎サンプルの解説等(各画像を左クリックすると拡大する)
〇諸行無常(掛軸-上下部分省略)
 諸行無常偈といわれ涅槃経にある四句の偈である。これが空海のいろは歌と整合しているところが絶妙である。簡潔に表現すれば、万物は無常にして生じては滅し再生しては又滅していく。それが静まり止むことこそ安楽すなわち死である。日本の伝統的葬送の際、棺を四句の偈の「四本幡」で囲って送る由縁である。
〇合掌(掛軸-上下部分省略)
 合掌とは、両手をあわせて仏を拝む時の礼法である。インドの敬礼作法の一種が仏教に取り入れられた。南アジア一帯の仏教国では、挨拶の代わりに合掌して相手に礼を尽くす。仏と衆生が合体して成仏するという意味である。
手を合わせることは、左右相対したものが一つになり、信じることや調和を保つことの象徴でもある。
〇千曲川旅情の詩(巻子)
 本巻子は、万葉仮名で揮毫したものである。なお、現代文にすれば次のとおり。
 小諸なる小城のほとり 雲白く遊子悲しむ 緑なすはこべは萌えず 若草もしくによしなし しろがねの衾の岡辺 日に溶けて淡雪流る  あたたかき光はあれど 野に満つる香も知らず 浅くのみ春は霞みて 麦の色はつかに青し 旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ  暮れ行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛 千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む    
            藤村落梅集から  邦山書
〇『摩訶般若波羅蜜多心経』(額)
 一般に最も親しまれている『般若心経』は正式には『摩訶般若波羅蜜多心経』といって、唐の玄奘三蔵法師(600~664)の訳とされている。『大般若経』から抄出されたと考えられているこの『般若心経』は、本文わずか262文字の中に仏教の教えのすべてが網羅されている。すなわち、『般若心経』に取り上げられている五蘊・六根・十二因縁・四諦・八正道などはすべて釈尊の教義の基本をなすもので、それを「空」として説くものである。したがって、『般若心経』を学ぶことは、仏教の基本をきちんと学ぶことになる。また、読誦経典としてだけでなく、写経の経典としても最も多く一般的に使われている。小生は三十代の頃から毎朝『般若心経』を読誦するのが日課となっていた。
僧侶になる前から毎朝たとえ数分ではあるが姿勢を正し読誦して人間として生きることに対する罪業消滅等を願ってきた。

◎依頼先(お問い合わせ)
慈悲の会(曹洞宗)(メール:yamadera24@jcom.zaq.ne.jp)



 
 
 
 









千曲川旅情の詩
摩訶般若波羅蜜多心経

4 坐禅指導

 日本全国の曹洞宗が認可した参禅道場、坐禅会を行っている寺院等は、多数存在する。
 関東一都三県(神奈川、千葉、埼玉)だけでも百か所以上あるが、ここでは大本山總持寺と大本山永平寺東京別院長谷寺の参禅会等に限定してその概要を紹介する。

◎大本山總持寺の坐禅会
 總持寺の参禅には、主に次の3コースがある。ただし、この参禅会は新型コロナウイルス感染症拡大防止等諸事情により当面の間休会となっている。なお、当面これに代わるものとして団体参禅会のみが実施されており、その概要等は本末尾に示すとおりである。
〇月例参禅
 月例参禅は、毎月指定した日を自由参加の坐禅会として開催している。なお、自由参加の参禅は、予約なしで参加可能。先着100名で受付終了。初参加者は午後1時までに香積台受付に集合。午後1時受付開始で4時頃解散。服装(持参品)は、坐禅しやすい恰好(ジャージ等) 参加費は500円
〇暁天参禅
 暁天参禅は、毎月指定した日を自由参加の坐禅会として開催している。なお、自由参加の参禅は、予約なしで参加可能。先着100名で受付終了。開催時間等は、05:15~05:45受付時間厳守、6時止静、7時頃解散。服装(持参品)は、坐禅しやすい恰好(ジャージ等) 参加費は300円
〇一泊参禅『禅の一夜』
日程等
 新型コロナウイルス感染症流行のため2020.9月以降の日程は、未定。定員30名の予定。持参品は、洗面・入浴用具、タオル、白靴下、寝間着。参加費6000円(坐禅着レンタルの場合7000円)
スケジュール
第1日目(土)          
16:30 受付・着替え         
17:00 挨拶・坐禅指導       
17:30 止静(坐禅開始)         
18:10 抽解            
18:30 薬石(夕食)、飯台片付け  
19:30 夜話会                                  
20:00 明朝説明         
20:10 入浴             
21:00 開枕(就寝)         
第2日目(日)
03:40 振鈴(起床)
04:10 止静・抽解
     朝課(朝のお勤め)
06:30 小食(朝食)、飯台片付け
07:15 作務(掃除)
08:30 茶話会(祖録)
09:00 挨拶・解散
  *希望者は9時以降に坐禅一炷
  *終了後拝観(希望者のみ)

〇団体参禅会(月例参禅、暁天参禅、一泊参禅『禅の一夜』に代わるもの)
・団体日帰り参禅3時間コース

 時間:午前10~午後1時 午後1時~午後4時
 参加費:1500円
 持参品:坐禅しやすい格好(ジャージ等)
・団体日帰り参禅6時間コース
 時間:午前10時~午後4時
 食事:精進料理
 参加費:4500円
 持参品:坐禅しやすい格好(ジャージ等)

申し込み方法
 希望者は、住所・氏名・年齢・性別・電話番号・職業・参加希望日(リピート可)を往復はがきに明記の上、下記住所まで送付のこと。
住所:〒230-8686 横浜市鶴見区鶴見2-1-1 大本山總持寺布教教化部参禅室
電話:045-581-6086  FAX:045-581-6348

坐禅修行中の著者(慈悲の会代表)
坐禅の姿勢
坐禅の姿勢(側面)

◎大本山永平寺東京別院長谷寺の坐禅会
 長谷寺では、毎週月曜日18:30~20:30の間次の3コースを設けている。参加予約等は必要なし。服装(持参品)は、坐禅しやすい恰好(ジャージ等) 参加費は100円
①初めての参加者は、『初心者講習』がある。
②2~5回目の参加者は、『2回目~5回目講習』がある。
③6回目以上の参加者は、即『参禅』
〇坐禅会の流れ(時間配分等)
・一炷目(18:30~19:10)
 (一炷とは、線香が燃え尽きるに要する約40分を意味する)
・経行(19:10~19:20)
 (経行「きんひん」とは、足の痛みをとるための歩く坐禅)
・抽解(19:20~19:30)
 (抽解とは、便所に行くなど次の坐禅に備える時間)
・二炷目(19:30~20:10)
 以上の流れは、6回目以上の参禅者の基本となる流れである。なお、『初心者講習』、『2回目~5回目講習』は、参加者の様子に合わせて独自の時間配分で行う。

ただし、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、現在、月曜参禅会は当面休止となっている。

大本山永平寺東京別院長谷寺の住所等は、次のとおり。
住所:〒106-0031 東京都港区西麻布2-21-34
電話:03-3400-5232
暁天坐禅(大本山永平寺東京別院)

5 法話録

慈悲の会 代表 山寺邦道の法話録(適宜追加更新)

◎死への準備について

 今回は、人の一生と死をめぐる問題について考えてみたい。
 釈尊は、生老病死の人生を苦であると観念し、苦からの離脱を目指して修行した。別の表現をするならば仏教とは「悟り」を追求する宗教である。そして追及の先に求めるものは涅槃寂静(安心)である。しかし、人生は苦しみと絶望の連続である。幸せは不幸と不幸の間のつかの間の一時ともいえる。そして最後には必ず人生の終焉を迎える。こういった無情な人生をどう考えて生きるべきか。人生を三昧の精神で有意義なものにするか、あるいはその反対に死ぬまでの暇つぶし(遊び)にするかは、本人次第である。人の数だけ人生観があるが、拙僧がこれまで生きてきてこれだけははっきり言える哲学がある。それは、「よく生きることは、よく死ぬことであり、よく死にたいと思うならよく生きることである」ということである。
 釈尊は、瞑想(坐禅)によって悟り(涅槃)を得た。それはまさに三昧の境地である。真の三昧の境地は我々俗人には到底到達できない境地であろうが、精進によってそれに近い精神状態には至ることができると考える。それは無我夢中、集中、熱中、没我等の状態に自己を持っていくことである。そこに生きがい、張り合いが生まれ自己の満足がある。
 しかし、それでも人生には限りがある。やがてすべての人間に訪れる死から逃れることはできない。そのために何時お迎えが来ても後悔がないように死の準備が必要である。したがって、何時いかなることが起ころうとも悔いのないように、今日只今を一生懸命大切にそして丁寧に生きること以外にない。

 人間はどうして生まれてきたのか、人が死んだらどうなるのか、どこへ行くのか、死後の世界をどうとらえるか、人生に意味があるのか等々についての死生観の究明の試みは、太古の昔からなされてきており、その結論は永遠の命題である。
 釈尊は、弟子たちに死後の世界のことを聞かれたとき「無記」といって決してお答えにならなかった。
 また、弘法大師空海は、自著『秘蔵宝鑰』の中で、次のように記している。
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」
 これは簡単にいうと、我々は死がなんであるかを知らないとともに、どこから来てどこへ行くかを知れ得ない、すなわち人間の思考の域を超えているという意味である。
 それでは、人生に意味があるかどうかについてはどうだろうか。
 トルストイは西洋哲学のあらゆる文献を彼の地位と財力で集められるだけ集めて、それを約十年の歳月をかけて調べ尽くした。「人生は無意味である」いかなる西洋哲学を持ってしても、この結論だけは改め得なかったと約十年の研究の末結論付けている。
 およそ人間に死がなければ宗教や哲学は存在しないであろう。昔から宗教や哲学が中心にする対象は生死の問題である。特に仏教においては『正法眼蔵』に象徴される如く生死をどのように超克するかが大問題とされている。
 また、私たちは死を見つめることによって、自分に与えられた時間が限られているという現実を再認識することができる。それは毎日をどう生きていったらいいかを改めて参究することであるから、死への準備はそのまま生への準備に外ならないといえる。

 最後に重ねていうが、この世は諸行無常である。この世に絶対かつ平等なものがたった一つある。それは人の死である。人は遅かれ早かれ必ず死ぬ。したがって、何時いかなることが起ころうとも悔いのないよう、今日只今を全身全霊を傾け一生懸命生きることが肝要である。どうか皆様のご精進を期待して結びとする。

   御仏の慈悲の光に照らされて 唯ひたすらに今ぞ生き抜く


◎東京国際仏教塾等について
 拙僧は、東京国際仏教塾の二十四期生である。
 入塾の動機は、古希を目前に控え、以前からの念願であった東京国際仏教塾に入塾し、仏教に関する基礎的な知識を体系的に習得することにあった。
 期待どおり教育内容及び担当教授陣共々、日本の仏教塾の中では最もレベルの高い教育機関であると思っている。すなわち仏教系大学の仏教学部等と比較して勝るとも劣らないものと確信している。また同期生の方々も、既に仏教に関しかなりの知識を持っておられる方が多かった。加えて仏教に関する自己のポテンシャルを更に高めたいという真摯な気持ちが強く、また人間的にも立派な方ばかりであった。したがって、極めて有意義な教育を受けることができたことを今更ながら感謝している。
 東京国際仏教塾卒業直後、突然妻を亡くし残余の人生を妻の供養に捧げるべく、出家得度の決意をした。そして幸いにも縁あって元曹洞宗管長板橋興宗禅師様を導師として出家得度することができた。現在は曹洞宗の僧籍に登録され、正式な僧侶となり福井県の御誕生寺を師寮寺として、千葉県で修行活動中である。
 さて、僧侶の職務は、端的にいって二つあると考える。その一つは、周知のとおり現代日本社会において、死者に引導を渡す葬儀を執り行うこと、もう一つは、むしろこの方が本来の大切な任務であるが、悩み苦しんでいる人々の心を救済することである。
 この任務を遂行するために厳しい修行に耐え、そのための研鑽と自己陶冶に励まなければならないわけである。悩める人々の心を救済すべき根本は何か。それは煎じ詰めれば人生の生老病死等の苦の解決である。そしてそれは、煩悩の世界に生きている人々の死生観の参究に他ならない。したがって、目下亡き妻に対する悲嘆からの超克を胸に、死生観の参究にのめり込んでいる。
 拙僧は、毎朝一時間の勤行をしているが、その時線香とローソクの火を見ながら時々人生の諸行無常が我が脳裏をよぎる。勤行が終わるころには線香もローソクも既に燃え尽きている。人生もしかりである。人の一生は一瞬にして終わる。
 人間は必ず死ぬという厳粛な事実は、我々人間にとって未来永劫変わることはない。この厳粛な事実に立って、それではどのように生きるのが最良なのか。
 拙僧は妻の死を契機として、死生観についての自著を出版した。したがって、死生観について関心のある方は閲覧されることをお勧めする。
(山寺邦道『死生観』パレード出版 定価1600円+税・2021年4月電子書籍化)


◎三昧について
 三昧には王三昧(静中三昧)と個三昧(動中三昧)があり、王三昧とは坐禅のことを指し、個三昧は個々の三昧の意味で坐禅以外の精神集中のことである。
 この王三昧の中でも最も優れた至極の王三昧を体験した人は、例えば菩提樹の下で大悟された仏祖釈尊であり、また中国(宋)の天童山如浄禅師の下で坐禅中に身心脱落を体験した道元禅師その人である。
 一言で坐禅と言っても坐禅の程度(内容)には、様々なレベルがある。雲水が禅宗の専門僧堂で修行する勤行、作務、托鉢等は、個三昧を目指すものである。この禅道場での血のにじむような行住坐臥の集積から王三昧による大輪の花(大悟)を咲かせる人物が出てくるのである。
 なお、僧界以外でも例えばそれぞれの専門分野で立派な業績を残した人物等は高度な個三昧の境地に到達しているのではないかと拙僧は考えている。
 そのような境地を体験している人々に共通して言えることは、携わっている対象に対して、嬉々とした生き甲斐のある人生を歩んでいる人が殆どである。そこには苦しみのうちにも集中の充実感や達成感と安心が伴っている。
 快楽にふけることが幸福であると思っている生活は、心揺さぶる感激は湧かず、倦怠の結果だけが残るものである。生き甲斐とは感動する心でありそれは個三昧の集積から生まれるものであると考察する。
 拙僧が法話の際に必ず申し上げることであるが、この世には絶対かつ平等なものがたった一つある。それは人は遅かれ早かれ必ず死ぬということである。したがって何時いかなることが起ころうとも悔いのないように今日只今を一生懸命集中して大切かつ丁寧に生きることが肝要である。どうか真剣に打ち込める生き甲斐を見つけて今日只今の生活が充実したものとなるよう皆様のご精進を期待して結びとする。
 

◎永寿康寧について
 今回は趣の異なる法話をする。
 厚生労働省が公開した最新(2022.7.29)の日本人の平均寿命は、男性81.47歳、女性87.57歳である。一方男性の健康寿命は72.68歳、女性は75.38歳である。
 すなわち、自立した生活を送れる期間(健康寿命)が、平均寿命より男性は約9年(8.79歳)、女性は約12年(12.19歳)も短い。
 このように私たちの平均寿命は、延び続け今では人生90歳に手が届こうとしているが、その一方で自立した生活を送れる期間(健康寿命)が、平均寿命より前述したとおり男性は約9年、女性は約12年も短い。これは、支援や介護を必要とするなど健康上の問題で日常生活に制限のある期間が平均で9年から12年もあるということである。
 人間の健康は、先天的要素と後天的要素に左右される。遺伝性の病気等先天的要素は運命であるので自分の努力では如何ともし難い面もあるが、後天的要素は本人の努力次第である程度延伸可能である。
 そのためには、バランスの良い食事、禁煙、適度な運動、質の良い睡眠、ストレスを貯めない生活態度等自らが健康管理に万全を尽くすことが肝要である。
 表題の永寿康寧とは、健康で幸せに長生きすることを意味する。
 どうか皆様のご精進を期待して止まない。


◎釈尊の基本的な教えについて
  釈尊の基本的な教えは、集約すると次のとおりである。

〇縁起
  仏教の根幹をなす思想の一つで、世界の一切は、直接的にも間接的にも何らかの形で、それぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方を指す。縁起の語は、因縁生起の略で因は原因、縁は条件のことである。釈尊は縁起について「私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々が知り難く悟り難いものであるが、縁起はこの世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけである」という。この縁起は、仏教思想の中心で、釈尊の教えはこの縁起の法から展開されている。

〇三法印
 法印とは、法の旗印という意味で仏教の根本教理を指し、仏教がよって起こったその存在理由並びに他の教説との違いを如実に物語っている。すなわち、諸行無常(諸々の現象は、常に移り変わって永遠に変わらないものは何一つないという原理)、諸法無我(諸行無常より導き出された印であり、すべてのものには固定した実体我というものがないという原理)、涅槃寂静(苦楽や生死を超えた一切の煩悩が断ち切られ、輪廻することのない心身の安楽と静けさを獲得した境涯のこと)がそれである。また、これに一切皆苦(我々の生存の一切は苦しみである)を加えて四法印ということもある。

〇四諦(四聖諦)
 四諦とは、四つの真理ということで、苦諦、集諦、滅諦、道諦のことである。
苦諦とは、人間存在は苦以外の何ものでもないという真理であり、生老病死の四苦によって代表される。集諦は、そうした苦を集める原因のことである。苦には苦の原因があり、その原因が集諦で、その結果が苦諦である。その集諦とは、無明・煩悩のことである。一方滅諦は、その無明・煩悩が滅し、したがって、苦が滅した世界のことで、そこが涅槃といわれる世界である。それは決して虚無ではあり得ないはずで、真のやすらぎ、真の自由が実現した世界のはずである。苦しみの生存以外ではあり得ない人間も、その苦しみを滅することができるのである。道諦は、その滅諦を実現する方法、道のことである。道諦は滅諦の原因であり、滅諦は道諦の結果である。その道諦とは、要するに様々な修行のことになる。

〇八正道
 前述のとおり、煩悩を整えて人間の心身を安定にする真理を実践する修行の道が道諦の教えで、これには八項目が説かれるので八正道といわれる。八正道は正見(正しい観察)から始まる。正見が縁になって正思惟(正しい思索)となり、それを他に伝える縁が正語(正しい言葉)である。正しく思索し、話すことにより、正業(正しい行為)になり、正業は正命(正しい生活)を築く縁になる。それらが実るには正精進(励み)が必要で、精進を縁として初めの正見(正しい観察)の目は内に向けられて心中に法(真理)を思い浮かべるに至る。常に心に思いを浮かべて忘れないことを正念という。正念により人の心は安定しそれが正定である。以上要するに、慧(正見・正思惟)、戒(正語・正業・正命・正精進)、定(正念・正定)の正しい実践ということになる。

〇中道
 前述の八正道でいう正しいとは、仏教思想では縁起の道理にかなうという意味で、正道はまた中道とも呼ばれる。「中」も一方に偏らない均衡状態であるというだけでなく、縁起の道理に合致するものである。

 以上釈尊の基本的な教えについて述べてきたが、多数の関連文献を研究中に気が付いた件を付言して結びとする。まずその一点は、これまで釈尊の教えとして述べてきた内容は、釈尊自身が定型的にそのまま説いたものではなく、釈尊の死後、その多くの教説をまとめ上げていく中でほぼ一貫してその基底に流れる知見を後世の者が集約整理したものではないかとの印象を受けた。更にもう一点は、釈尊の教えの各項目内容は、それぞれ連鎖しており、また、八正道などという形でまとめられているものは、正に現在にも通じるこの世の道理そのものであると考察する。


◎日本仏教の現代的意義について
 日本仏教の現代的意義は、社会、政治、経済、文化、思想、倫理等広範多岐に渡るテーマであるが、ここでは仏教の基本的理念と現代社会の諸問題の関係及び葬式仏教の是非の二点に限定して法話する。なお、論述視点は、仏教理論としてだけでなく、修行実践の観点から社会とどうかかわっていくか考察してみたい。

〇仏教と現代社会の諸
問題との関係
 日本の仏教には数多くの様々な宗派が存在するが、その源流は釈尊の教理である。したがって、まず釈尊の基本的な教えの内容に触れその理念が現代の諸問題の解決にどのようにかかわっているか言及することとする。縁起の理法は、三法印の諸行無常に続いて諸法無我の「我」が否定される。現代の社会問題の多くがこのエゴ(利己主義)が元凶になっているが、その解決の糸口はこの縁起の理法等の認識にあるのではなかろうか。また、縁起の理法の現れ、すなわち真理を人生に則して総体的に表現したものに四聖諦がある。苦諦、集諦、滅諦、道諦がそれである。苦諦とは、生存するに伴う生老病死の四苦等のことであり、集諦とはその苦しみがよってきたる原因はそもそも何か、それは煩悩に他ならない。次に煩悩が滅んでなくなった状態として滅諦をあげ、そこへ到る道を道諦として八正道がある。すなわち人生は苦しみそのもの、その原因は、貪、瞋、痴を三毒とする煩悩だから苦しみから逃れるために煩悩を滅ぼさなければならない。そのためには八正道を実践しなければならないということである。釈尊は更に臨終の際の最後の教えである仏遺教経の中で少欲知足の精神を教えている。これまで自然と人間は、互いに対立する二元関係におかれ、自然は人間によって征服されるべきものとされてきた。今その行き着いた姿として自然破壊や核開発等のありようが問題視されるようになっている。それらは地球の存在そのものさえ危うくするようになってしまったからである。その結果、西洋思想から東洋思想に乗り換える必要性も提言され始めている。つまり絶対存在とそうではないもの、分かりやすく例えれば支配するものとされるものという二元的な関係を柱とする思想から仏教の「一切衆生悉有仏性」等に象徴される一元論に乗り換えなければならないということである。これこそが仏教の理念そのものである。地球の本来的機能である循環というサイクルの中で人間存在のありようを考えなければならない。これ以上の機能破壊を止め、次に破壊された機能を回復し、その保全に努めること、そうしなければ共存共生はあり得ず、したがって人類の存在もあり得なくなる。全人類がこの仏教の精神すなわち縁起の理法等にかなった生き方、四諦の理解と八正道の実践を常に忘れずに行動することが肝要である。

〇葬式仏教の是非
 日本仏教が葬式仏教に向かう大きな転機は、江戸幕府が定めた檀家制度が大きく影響しているが、この葬式仏教について言及する。葬式仏教とは、本来の仏教の在り方から大きく隔たった、葬式の際にしか必要とされない現在の日本の形骸化した仏教の姿を揶揄して表現したものである。すなわち葬式仏教といわれるのは僧侶たちが葬式や年忌の法事、墓地の管理等にかまけて、現在を悩みながら生きている人々の救済願望に応える努力をしないように見えることに対する批判である。しかし、翻って考えてみると、例えば葬式をきちんと僧侶が執り行ってくれるというのは、一人の人間にとって誕生と並ぶ死という一大画期的行事を荘重かつ厳粛に通過したいという願いに応えていることも間違えない。僧侶が行うのが葬式と法事だけというのは問題があるにせよ現代の仏教者は、こうした葬式仏教の必要性も認識したうえで、人生の終焉としての葬式仏教を丁重に行うことは、現在の日本仏教が果たすべき重要な任務であり、これはこれでまた有意義なことであると思量する。

 以上仏教と現代社会の諸問題との関り及び葬式仏教の是非について言及してきたが、最後に日本仏教の今日的関連に触れて結びとしたい。
 我々日本人にとって、仏教は現に生きている宗教であり、また、おそらくは今でも我々のものの見方、考え方に大きな影響力を及ぼしている。つまり、約千五百年の昔から日本に伝えられ始めた仏教が、極めて進歩した文明社会を実現しつつある現代においても日本の社会を構成する不可分の要素となっており、同時に、この社会を支える多くの人々の精神生活に深くかかわっているものと考察する。


◎曹洞宗の宗史と宗義について
〇曹洞宗の宗史
 日本の曹洞宗は、鎌倉時代に出現した道元禅師によって中国から伝来されたものであるが、以下その歴史の概要について、述べることとする。
 道元禅師が二十四歳で中国へ留学したのは南宋の時代である。中国の諸山を遍歴した後、二十六歳の時たまたま天童山景徳寺の住職となっていた中国曹洞宗の流れをくむ如浄禅師(中国曹洞宗の祖洞山良介から数えて十三代目の祖師)に相見し、釈尊以来の正伝の仏法を相承することができた。二十八歳で帰国した道元禅師は、直ちに普勧坐禅儀一巻を撰述して正伝の仏法を宣揚したが、当時は比叡山を中心とした旧仏教側の圧力もあり、正伝を宣揚するためには、真の求道者を養成することが急務であると考えられ、宇治の興聖寺、更には越前の永平寺を通じて人材の養成に専念された。この道元禅師の精神は、その後を継いだ永平寺二代の孤雲懐壌禅師、永平寺三代で加賀の大乗寺を開かれた徹通義介禅師を経て、その弟子瑩山禅師に受け継がれた(瑩山禅師は、大衆の教化、祈祷の採用、偶像崇拝を認め、宗門の名称を禅宗・曹洞宗と呼ぶなど道元の主張を緩め、大衆に馴染み易くした。したがって、曹洞宗の今日の繁栄は瑩山禅師の解釈改宗によるところ大であるといわれている)。そして瑩山禅師のもとには、後に永光寺を継いだ明峰素哲禅師、總持寺を継いだ峨山禅師が出られ、その門下にも多くの優れた人材が輩出し、日本各地に曹洞禅が広まっていった次第である。特に今一つ中国禅宗の流れをくむ臨済宗が、幕府や貴族階級など、時の権力者の信仰を得たのに対し、曹洞宗は地方の豪族や一般民衆の帰依を受け、専ら地方へと教線を伸ばしていった。すなわち、鎌倉末期から室町時代にかけては、臨済宗が鎌倉や京都に最高の寺格を有する五ケ寺を定めて順位をつけた五山十刹の制をしき、五山文学を中心とする禅宗文化を大いに発展させたが、曹洞宗はこうした中央の政治権力との結びつきを避け、地方の民衆の中にとけこんで、民衆の素朴な悩みに応え、地道な布教活動を続けていった。しかし、長い歴史の間には宗門にもいろいろな乱れや変化が起こっている。江戸時代になると、徳川幕府による寺檀制度の確立によって、寺院の組織化と統制が加えられる一方、宗学の研究を志す月舟宗胡、卍山道白、面山瑞方等の優れた人材が出て、嗣法の乱れを正して道元禅師の示された面授嗣法の精神に還るべきことを主張した宗統復古の運動や、正法眼蔵を始めとする宗典の研究、校訂、出版などが盛んに行われた。明治維新となり、神道を中心に置こうとする新政府は、神仏を分離することで仏教を廃止しようとする廃仏毀釈を断行し、仏教界に大きな打撃を与えた。しかし仏教界の各宗もよくこの難局に耐え、曹洞宗には大内青巒が出て『修証義』の原型を編纂し、その後、總持寺の畔上楳仙禅師、永平寺の滝谷琢宗禅師の校訂を経て宗門布教の標準として交付され、在家化導の上に大きな役割を果たした(特に『修証義』は、今、『般若心経』とともに曹洞宗の檀信徒に最も親しまれている宗典である)。こうして曹洞宗々門は、現在全国に約一万五千寺の寺院と、約八百万の檀信徒を擁する大教団に発展し、今日に至っている。

〇曹洞宗の宗義
   宗義とは、広辞苑によれば宗門の根本となる教義とある。すなわち教義とは宗教の信仰内容が真理として公認され、信仰上の教えとして言い現わされた教理ということになる。したがって、曹洞宗宗憲第三条(宗旨)及び第五条(教義)等がこれに相当すると思量する。以下その宗義(宗旨・教義等)の条文内容について説明を加えることとする。曹洞宗宗憲第三条は、「本宗は、仏祖単伝の正法に従い、只管打坐、即心是仏を承当することを宗旨とする」とある。仏と人間は別物ではない。損得や欲望など煩悩が働きだす以前の心は静寂で、その世界は万人に共通している。したがって、師と弟子の悟りは異なるものではなく、坐禅で静寂が信じられ、それになりきったら、師と弟子も同じ世界にいることになる。師から弟子へ同じ静寂を伝えるから単伝というのである。その坐禅の世界に心底落ち着いていることを只管打坐という。その時、煩悩に染まった汚れた心をさしはさむ隙がないことを即心是仏という。静寂無心が直ちに仏の涅槃の世界なのである。それを最初に語ったのが釈尊であり、日本で正法眼蔵(曹洞宗の最も重要な根本経典であると同時に日本の生んだ最高の仏教思想書)に著し、教示したのが道元禅師である。
 次に曹洞宗宗憲第五条には、「本宗は、修証義の四大綱領に則り、禅戒一如、修証不二の妙諦を実践することを教義の大綱とする」とある。修証義には信仰生活の原則が、四大綱領(懴悔滅罪・受戒入位・発願利生・行持報恩)という言葉でまとめられている。この四大綱領を要約して禅戒一如と修証不二という。禅戒一如というのは、禅と戒は一つだということである。一般に、戒は、戒律と同義語として扱われ、悪いことをしないで善いことをする、ないし道徳的、倫理的な禁止条項をいう。個人生活でも、人格を向上し、平和に暮らすには、道徳や倫理が不可欠な要件になることはいうまでもない。つまり、誰でも本来的に持っている真心、偏らない、とらわれない、そして、すべてのものを慈しみ愛する心のこと、仏教的に表現すれば、仏心、仏性のことである。この真心から考え、発言し、行動するのでなければ、真の道徳・倫理とはならないのである。このような、いわば大宇宙的な広大な視野に立って、すべてのものの命、人間の真心を自覚することが、実は禅(只管打坐・即心是仏)に他ならないのであり、この自覚の上に立つ生活が戒である。敢えていうならば、禅は命、真心の静的な面であり、戒はその動的な面であるから禅は戒に展開し、戒は禅に帰一するので、その意味で、禅と戒は、二つであって実は一つなのである。そこで戒を特に仏戒と呼んでいる。仏戒の生活では常識的な善と悪など、道徳・倫理を包み込んでいるから善と悪の対立はないし、善と悪に束縛されない。たとえ悪とみなされることも善に転換され、蘇生するのである。また、悪いことをしようにもできないという高い次元に立つわけである。受戒入位にはこのような 意義が潜んでいる。一方、修証不二とは、修行と証悟は一つだということである。一般的には修行は証悟に至るまでの過程にすぎないと考えられている。しかしながら修行するその過程の中にこそ証悟があるのではないだろうか。証悟の中にこそ修行がある。強いていえば、証悟としての修行、修行としての証悟である。修行も証悟もそれは元はといえば、大宇宙のありよう、大宇宙と直結している。今、ここでの私たちの命の絶対的事実を表現したのに過ぎない。現実はそのまま理想であり、理想はそのまま現実である。今、ここでかけがえのない命を、その命のありのままに生きていくことを自覚した生き方を、修行といい、証悟という。そういう修行・証悟を修証不二という。『修証義』で具体的に示すと、第二章懴悔滅罪、第三章受戒入位は証であり、第四章発願利生、第五章行持報恩は修である。証といっても、先に述べた、命の絶対的な自覚に立つから、特に本証とし、修といっても、この本証のおのずからの活動であるから、特に妙修として、本性妙修という。 


◎死生観について  
 死生観とは、生きるとはどういうことかを死を通して考えることであるが、様々な視点がある。なぜ生まれてきたか、人生とは何か、人生に意味があるのか、生きることとは何か、何のために生きるのか、どう生きたらいいのか、どうして生きていかなければならないのか、生についての人々の考え方や理解の仕方はどうなのか、また、死ぬこととは何か、人が死んだらどうなるのか、どこへ行くのか、死後の死者をどうとらえるか等々。要するに、生き方、死にざまに関する社会や個人の考え方といってもよい。
 現代では個人に重きがおかれ、死生観といえば、生きることと死ぬことについての個人的な人生の指針と見なされる傾向にある。
 人は生きてきたように死ぬといわれるように人の生涯は死にぎわに凝縮される。その死にざまが各人各様であるように、それぞれの死生観も百人百様で語り尽くし難い。自分には死生観などはない、今を精一杯生きることが自分の人生のすべてだといい切る人もいるだろうが、それもまた立派な死生観である。
 したがって、以下様々な観点から死生観を見ることとしたい。
 まず、死生観が宗教と深いかかわりを持つことはいうまでもない。したがって、日本仏教七宗祖(天台宗の最澄、真言宗の空海、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元)の中で最も死生観について参究した道元について、その著書『正法眼蔵』の「生死」の巻をもとに論を展開することとする。
 次に哲学と死生観について省察し、更に絶体絶命の立場に直面した先人たち等、あらゆる視点から死生観について概観することにする。

〇『正法眼蔵』に見る死生観
 『正法眼蔵』は、曹洞宗の宗祖道元禅師が著した宗教の哲学書である。
   『正法眼蔵』の「正法」というのは、正しい教法の意であり、「眼」はその正法の精髄、本質のことであり、「蔵」とはすべてを包摂して、漏らすことのない意である。したがって、正法眼蔵とは、仏教という正しい教法の精髄を漏らすことなく集成した書物ということになる。
『正法眼蔵』は、仏道修行して将来僧侶になる人たちのために書かれたものであり、一般の在家俗人のために書かれたものではない。初めから終りまで、具体的に坐禅修行する上での注意と心掛け、志のありようを説いている。だから、おそらく江戸時代までは専門の修行僧しか読まなかったものと思われる。江戸時代までほとんど読まれていなかったが、近代になってからの道元人気を考えると、それは嘘のようである。
 死の発見が宗教や哲学の誕生であることからして、この著書の根底には脈々と死についての哲学が包含されているのである。道元がその最後の項の巻にもう一度「生死」の巻を取り上げたということは、やはりこれが道元の中心にある問題だったのだろう。
 また『正法眼蔵』は、難解でその訳や注釈は、僧界のそれといわず、研究者のそれといわず、一つとして同じものはない。それは正に『摩訶般若波羅蜜多心経』の訳と同様であり奥が深いということを物語っている。

 道元は、「生死」巻で、とことん掘り下げた死生観を展開している。すなわち、その文言の中に、彼の生と死に対する凝縮した思いが込められている。
 まず次の一文に注目してみよう。

  この生死は、即ち仏の御いのち也。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御
 いのちをうしなはんとする也。これにとどまりて生死に著すれば、これも仏のいのち
 をうしなふ也、仏のありさまをとどむるなり。いとふことなく、したふことなき、こ
 のときはじめて仏のこころにいる。

 人間の生と死は仏の命である。これほど大事なものをないがしろにするなら、それは仏の命を奪うことになる。また逆に、これを大事にし過ぎて生死にとらわれ過ぎてしまうのも仏の命を奪うことになる。ただ外形だけで仏らしくしているにすぎない。だから、私たちは生と死を、厭うこともなく、執着することもなくなったとき、仏の心の中にいるということを悟れるのだ。

 生死を仏の命と捉えた道元は、次いで「生死」巻第一段で、「生死即涅槃」という仏教本来の死生観に立って、いたずらに「生死を厭い、涅槃を求めること」の誤りを述べている。

  生死の中に仏あれば生死なし。又云く、生死の中に仏なければ生死にまどわず。こ
 ころは、夾山・定山といはれし、ふたりの禅師のことばなり。得道の人のことばなれ
 ば、さだめてむなしくまうけじ。生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあ
 きらむべし。もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむ
 かひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめ
 て、さらに解脱のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死とし
 ていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなる
 る分あり。

「迷いの中に悟りがあれば、迷いはなくなる」
またいう、
「迷いの中に悟りがなければ、迷いに迷うことはない」
 この言葉は、宋代の禅僧の夾山善会と定山神英という二人の禅師のものである。悟りを得た人の言葉であるから、無意味なものであるわけがない。
 迷いから離脱したい人は、まさにこの言葉の真意を明らかにすべきである。人がもし迷いの中で、別のものとしての悟りを求めるならば、車のながえを北に向けて南の越の国に向かい、顔を南に向けて北斗星を見ようとするようなものだ。それだと、むしろ迷いの原因を寄せ集めて、ますます解脱への道を見失ってしまう。ただただ「生死」が即「涅槃」だと心得て、「生死」(迷い)であるからといってこれを忌避せず、「涅槃」を願ってはならない。そうしたとき、はじめて「生死」(迷い)を離れる手立てができる。
 丁寧に訳すと以上のようになるが別の表現で少し簡潔に説明すると次のようになる。
 生死が仏であるが故に「仏きり」と説く夾山と、生死が仏そのものであるが故に「生死きり」と説く定山の語を引きながら、「仏の御いのち」の生死について説く。生死のほかに仏を求めることはまったく無意味なことで、かえってそれによって生死の原因とかを集めては、解脱の道を見失うことになる。「生死は涅槃(悟り)」と心得て、その生死を厭うことなく、その涅槃を願うことがなくなったときに、苦である「生死」から解放されたこととなると説く。
 この箇所は、曹洞宗で最も読誦されている『修証義』の経文の総序の冒頭に引用されているほど重要な意味を持っている。

 次いで第二段で、人間の「生と死」についてさらに追及する。「生きたらばただこれ生、滅きたらばただこれ滅」と説く圧巻の部分である。

  生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生はひとときのくらゐにて、すで
 にさきあり、のちあり、故に仏法の中には、生すなはち不生といふ。滅もひとときの
 くらゐにて、又さきあり、のちあり。これによりて、滅すなはち不滅といふ。生とい
 ふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かるがゆ
 ゑに、生きたらばただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとふこと
 なかれ、ねがふことなかれ。

 生から死に移ると考えるのは間違いである。生は一時のあり方であり、その中に先があり後がある。それ故、仏法においては、生がすなわち不生だという。滅(死)も一時のあり方であって、その中に先があり後がある。したがって、滅がすなわち不滅というのだ。生というとき、生のほかに何もなく、滅(死)というとき、滅(死)のほかに何もない。したがって、生きているときはただひたすら生に向かい、死ぬときは死に向かって、しっかりと対応すればよい。死を忌避すべきではないし、生を願ってもならぬ。
 別の表現でもう少し分かりやすく訳すと次のようになる。
 人間の生涯を生から死に移ると考えるのは間違えだ。生はある時点のことであり、これにも後と先がある。だから仏法の教えに、「生は不生」というのだ。滅もやはりある時点のことをいうのであって、これにも後先がある。「滅は不滅」というのはそのためだ。したがって、「生」というときは「生」以外になく、「滅」というときも「滅」以外にない。だから「生きたなら生であり、滅来たなら滅にしたがう」のがよい。生と死を厭うこともなく、涅槃(悟り)を願うこともないのだ。

 第二段の「生きたらばただこれ生、滅きたらばただこれ滅」をさらに徹底させたのが第三段である。ここでは、まさに「生死の超克」の仕方が説かれている。

  ただし、心を以てはかることなかれ。ことばをもっていふことなかれ。ただわが身
 をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、こ
 れにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死を
 はなれ、仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。

 ともあれ、あれこれ揣摩臆測するな。言葉でもって言おうとするな。ただ、我が身とわが心をすっかり忘れ去ってしまい、すべてを仏の家(仏の世界)に投げ込んでしまって、仏のほうからの働きかけがあって、それに随っていくようにしたとき、力も入れないで、心労もせず、迷いを離れて悟りを得ることができる。そのようにすれば、誰も心を悩ませることはない。
 すなわち、人間の生死を、心や言葉で捉えてはいけない。身も心も捨て切って、仏の中に入り込み、この仏の側から坐禅をしていけば、力を入れることなく心を費やすこともなく、自然体で生死から放たれ、仏となる。
 そして、「仏となる道」を具体的に示したのが第四段である。

  仏となるに、いとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころ
 なく、一切衆生のために、あわれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろづ
 をいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもふことなく、うれふることなき、こ
 れを仏となづく。又ほかにたづぬることなかれ。

 悟りを得るに簡単な方法がある。諸々の悪事をせず、生死に執着することなく、すべての衆生に慈悲深く、上を敬い、下を憐れみ、万事に対して厭う心を持たず、願う心を持たず、心にあれこれ思わず、憂うる事もない、それを悟りと名付ける。そして、それ以外に悟りを求めてはならない。
 すなわち、道元は「仏となる道」として、悪を働かないこと、生死にこだわらないこと、慈しみと尊敬の心を持つこと、万事を厭わぬこと、願わぬことが大切であると説く。

 現代日本仏教宗祖の中で道元ほど、私たち人間の生と死について徹底した思索を深めた人はいない。これを「仏の御いのち」と捉えて、真正面から追求し、私たちの生と死の苦しみを解き放つ道を示したのである。

〇哲学と死生観
 西田幾多郎と鈴木大拙は、日本を代表する世界的な哲学者と宗教家であるが、身内の死の悲嘆体験を超克して後世に残る仕事を成し遂げた。そこで先ずその概要について述べることにする。しかる後に、世界の著名な哲学者の死生観について紹介することとする。

・哲学者の死の超克
 西田幾多郎と鈴木大拙という偉大な二人が同じ1870(明治三)年に同じ石川県で生まれ(西田:石川県河北郡宇ノ気村、鈴木:金沢市本多町)、同じ学校(第四高等中学校予科)の同級生(第一級)として学んでいる。これは歴史上奇跡のような偶然だが、そこには必然性も秘められている。加賀は歴史的に宗教性の高い精神風土である。
 鈴木大拙は次のように記している。「加賀の者とか北陸の者は昔から宗教心が強いとよくいうが、一向宗なんというような浄土真宗の盛んな本場でもあるし、また禅宗の方では曹洞宗に能登総持寺があるし、越前永平寺があって、禅も盛んなところである。加賀の殿様も代々曹洞宗であったのだから、金沢に曹洞宗の大きな寺がある。大乗寺にしても天徳院にしても立派な大きな寺である」このような精神風土の中で西田も鈴木も若い頃から、自然によく参禅した。そして明治初年、第四高等中学ができたばかりのころ若き西田と鈴木は、編入学し机を並べて切磋琢磨した。したがって、嫌が上でも学問への情熱は高まったと思われる。

 そこに次々と二人に降り掛かる二人称の死が訪れた。二人称の死とは家族など親しい者の死のことである。「二人称の死」という言葉は古くから、宗教学、哲学に登場していたが、日本で広く認知されるようになったのは、作家柳田邦男が次男の自死を看取った記録『犠牲わが息子・脳死の十一日』以来である。柳田はこの著書の中で二人称の死を次のように規定している。「『二人称(あなた)の死』とは、連れ合い、親子、兄弟姉妹、恋人の死である。人生と生活を分かち合った肉親あるいは、恋人が死に行くとき、どのように対応するかという、辛く厳しい試練に直面することになる」柳田自身、次男の脳死を看取って、脳死・臓器移植等の現代医療、生命倫理問題に対して様々な提言をしていくようになった。二人称の死を体験した人は大きな悲しみの中に陥る。暫くは誰もがうつ状態の中にある。時には江藤淳のように、立ち直ることが出来ずに自死する者もある。フロイトは喪失体験から立ち直る時、何らかのモーニングワーク(喪の作業)が行われると論考している。悲しみを、例えば言語化することによって、身体から切り離し「思い出」化していくような作業である。天才人であればそれが優れた芸術作品にもなる。人生が変わっていく場合もある。深い悲しみから人生の深淵を知り、人生の無常を悟り、詩人、求道者、哲学者、宗教家になっていく天才人もいる。道元は八歳の時に母を亡くし、世の無常を感じて十四歳で出家し、偉大な祖師となった。ダンテやゲーテの文学も二人称の死から生まれた。
 鈴木大拙が六歳の時に父良準が五十四歳で亡くなった。その二年後に次兄・利太郎が十一歳で早世した。大拙の母・増はこの二人の死に強い精神的衝撃を受け深いうつ状態を呈したという。その癒しを求めて様々な宗教的行動を取るようになり、自然に大拙も母の行動に感化されていった。

 一方西田幾多郎が記憶にとどめている最初の肉親との死別体験は1883年の次姉・尚のチフスによる病死であった。当時十三歳だった幾多郎は四歳年上の聡明な姉の死に大きな衝撃を受けている。また、幾多郎は、家族としては両親を、四人兄弟姉妹のうち三人を、更に八人の子供のうち五人を亡くしている。中でも次女幽子を六歳で亡くした後は深い悲嘆状態を呈した。死別体験後何度かうつ状態を呈し、いつしか「人生は悲哀である」という彼の哲学的思索において根本となる死生観を形成するようになった。その悲嘆体験が「善の研究」の完成に繋がっている。

 要するに金沢の歴史的宗教風土の中で西田幾多郎と鈴木大拙は共に二人称の死による深い悲嘆を体験し、幾多郎は哲学を大拙は禅を極めていくことで、超克していったといえる。

・哲学で考える死生観
 人が死んだらどうなるのかということを、哲学的見地から簡単にまとめてみることにする。
 哲学の歴史の上でも、死後に関する議論の長い伝統がある。古代ギリシャの哲学者ソクラテスやプラトンは霊魂不滅説を説いている。これは人間のうちにある本質、つまり霊魂は、本来不滅であり、善き人の魂は死後に肉体を離れて、完全な幸福を得るために新たな存在の次元に移るとする説である。
 この霊魂不滅説は、ことさら霊魂と肉体を対立させた上で、肉体を軽視する極端な二元論ともいえるだろう。
だから、人間存在を心と身体の不可分な統一体と見る現代的人間観とは、相いれない点がある。しかし、人間の本質は不朽であると説くプラトンの教えは、人間性の尊厳を明らかに示すものとして、後代の哲学者たちにも様々な影響を与えている。

 エピクロスの死生観
 人間の魂とはアトム(分子)が結合した物体であり、人が死ねば、身体は分解され魂も分散するので、その時にはもはや感覚はない。つまり、死んでしまった後には、もはや死を経験するということ自体あり得ない。何かを経験するということは生きている間のみ可能なことだからである。そして、そうであるならば死は決して自らが経験することのできないものであり、死んだ後のことを死んだときに考えることはできず、もちろん生きているときは、死んでいないのだから死について考えることは無意味である。
 このように考えたエピクロスは、こう結論を出した、「死は存在しない。だから考えてもしょうがない」と。エピクロスは、生きているときは死んでいないし、死んだらもう人間として存在していないのだから、死は生きている者にも既に死んだ者にも、どちらにも関係がないものとして、死を「どうでもよいもの」として度外視することで、人間の最大の不安・悩み・問題である死を克服しようとした。
 エピクロスの哲学は、快楽主義(瞬間的な快楽ではなく永続的な快楽を目指す立場)と称されるが、しかし実際には、死は自分には無関係なものとして、ここまで冷静に達観できる人間はまずいないだろう。

プラトンの死生観
 プラトンの哲学を理解するためには、まずイデアという概念を理解する必要がある。イデアとは一言でいうと「永遠不変の真理」で、理性的認識の対象となるものである。もっと簡単にまとめると「真実」ということである。そのイデアが存在する世界をイデア界(英知界)といい、私たちが今いる世界(この世)を現象界という。
 プラトンは、私たちが現象界で見るものはすべて、イデア界のコピーと考えた。例えば、プラトンのイデア界を説明するときによく三角形の例えが用いられるのであるが、私たちは完全な三角形を書くことができないにも関わらず、本当の三角形がどんなものかを知っており、それをイメージすることができる。しかし実際には、本当の三角形は私たちの世界には存在しない。どんなに綺麗な三角形を書いても、線の太さや点の大きさ(面積)など本当の三角形には存在しないものが生じるし、そもそも、例え精密機械やコンピューターを使ったとしても、厳密な意味での本当の直線を書くことは絶対にできない。しかし、決して書けないし決して見ることができないにも関わらず、私たちは本当の三角形、つまり三角形のイデアを知っている。
 プラトンによれば、魂は肉体に宿る以前に天上界でイデアと接しており、このイデアを分有する不完全な地上のものと接すると、私たちは忘れていたイデアについての知を思い出す。だから、私たちは見たことがなくても、理性的には完全な三角形を知っている。
 三角形だけでなく、私たちが現象界で見るすべてのもの(リンゴ、犬、車、机、本、ペンなど目につくものすべて)、そして具体的に形としては目に見えないもの(愛、正義、勇気など)もすべて、イデア界においてイデアとして存在している。現象界という現実世界のものはすべて非存在で、それらはイデアが不完全な形で現れたものでしかなく、そして実は、人間の魂ですらそうなのである。私たちは、現象界においては年老いて必ず死ぬという自然の摂理を免れることはできないが、真の魂が別の場所(イデア界)にあるとするのなら、死んでしまったとしても、存在そのものが消えるということにはならない。
 つまり、「死は存在しない。だから考えてもしょうがない」といったエピクロスとは異なり、プラトンは「死後の世界は存在する」という立場である。魂はイデアの知識をもってこの肉体に入り込んできたものであり、だから魂は、肉体が滅んでも決して滅びることはなく、死後の魂はハデス(楽園)に存在し続けると考えたのである。

ハイデッガーとヤスパースの死生観
 人は必ず死ぬ。それ故に、人は死ぬことや死んだ後のことを考え、不安になる。その不安を和らげるには、できるだけ死について考えず、死を忘れるしかないという考えが、「死など無関係なものだ」といった前述のエピクロスの立場である。
 しかし生身の人間としては、やはりエピクロスのように死を楽観視することは難しく、忘れようとしてもどこかで死を考えてしまう。そうであるならば、「死から逃げたりはせず、むしろ死と正面から堂々と向かい合おう」というのがハイデッガーやヤスパースの立場である。
 もしかしたら明日死ぬかもしれない、という可能性を受け入れれば、時間は非常に価値あるものとなり、くだらなく意味のないことに時間を費やすことはなくなり、未来の可能性に自分自身を投じることができるようになる。そして、その時初めて「良心」からの声が聞こえ、この良心が、よりよく生きることができるという自信、確信に繋がるとハイデッガーは考えた。ハイデッガーは、不安や恐怖をもたらすものとされている死を積極的に引き受け、死を自覚することで、人間は本来的な存在の意味を明らかにできると考えたのである。
 ヤスパースの死生観も、基本的にはハイデッガーの考えと共通している。厳密には違いがあるが、少なくとも結論はほぼ同じである。死には完全が秘められていると考え、だからこそ死に向けて日々を大切に生きることが必要で、そうすることでただ漫然と生きることの無駄を知り、死に対する態度が変わり、偉大な事業を成し遂げることができると考えたのである。

 要するに、エピクロスは「死はどうでもいいもの」といい、プラトンは「死後の世界は存在する」といったが、それに対してハイデッガーやヤスパースは、エピクロスとは逆に死は正面から向き合わねばならない重要なものと捉えながらも、プラトンのように死後の世界のことにまでは言及していない。

〇歴史上の人物に見る死生観
 死生観は、人の数だけあり千差万別である。拙僧は、本研究を通じて数多くの人間の死に様に接することができた。ここにそのすべてを紹介することはできないので、歴史上よく知られている著名人のうち、特に拙僧の印象に残った者の中から、以下五名について時系列順に紹介することとする。

・西行法師の死生観
 西行法師(1118-1190)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武人・僧侶・歌人である。
 西行が出家した動機は、仏教に深く帰依したからではなかったといわれている。北面の武士であり荘園の所有者という上流階級の佐藤義清が二十三歳という若さで出家した理由としては、盛衰変転の世に対する厭世観説、また友人の急死による無常観説、さらには高貴な女人待賢門院璋子への悲恋説などが挙げられるが、その真実の程は定かではない。
 また、和歌は、生涯を通じて歌壇とは距離を置いていたが、新古今集では九十五首の最多入集歌人であるから、抜群の才能があったものと思われる。
 以下西行の有名な和歌をもとに彼の死生観について省察することにする。

   願はくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃

 これは、西行の和歌の中で最も広く知られた歌である。この歌は死に臨んだ作、いわゆる辞世の歌ではない。死ぬ十年ほど前に作ったものである。六十歳半ばの西行が、できれば「こういうように死にたい」と願って詠んだ歌である。
 西行の死生観の視点を一言でいえば、花(桜)と月、これに尽きるわけであるが、それはある意味で日本人の死生観の原点でもある。
 ところで、この歌が名高いのはその歌自身のもつ具体的表現と説得力にもよるが、実はもっと衝撃的なことは、西行はこの歌のとおりの死に方を実際にしたということである。
 この歌が詠まれてから十年ほど経った1190(建久元)年2月16日(陰暦)、まさに花の盛りの如月の満月のころ、西行は河内国(大阪府)南葛城の弘川寺で七十三年の生涯を閉じた。
 その死は、当時の人々に大きな衝撃を与えた。「願はくは花のしたにて春死なむ」と歌った人が、あたかも「そのきさらぎの望月のころ」、それは釈尊入滅のころにもあたる日、その通りに死んだのである。
 当時の貴族の間では西方浄土に往生することが最高の願望であっただけに、西行のこの死は最高の往生の完成、今風にいえば自己実現として、人々を驚嘆させた。
 まず藤原俊成が『長秋詠藻』の中でそのことに触れ、慈円なども『拾玉集』に取り上げて、西行の往生のありさまに感嘆の声を上げている。

 それではなぜそういう死に方ができたのか。
 西行が息を引き取ったその弘川寺は、葛城山の西麓にあり、死の前年になって、にわかにそこに移り住んでいる。山中に庵を結び、ほんのわずかな期間そこに寝起きして、最期を迎えている。死に場所として、そこを選んだのである。
 けれども、翻って考えてみるに、桜が咲く満月の夜に死にたいといくら願っても、そんな幸運に果たして恵まれることがあるのだろうか。いくらそう願っても、その通りに往生できる保証は、どこにもない。
 ただし、願望通りの唯一の死に方がある。それは断食死である。
 西行は自分の生命の急速な衰えを自覚したとき、死ぬための場所を密かに心に決めたのであろう。それが河内の弘川寺であった。繰り返していえば、彼は死の前年にそこに移り、山中に庵を結んでいる。そして間もなく病の床に臥している。明らかに、自分の死に場所をそこに定めたのである。それが1189(文治五)年秋のことであった。あとは、最後の日を決めることだけである。
 年が明けて、彼はゆっくりと食を遠ざけていったであろう。それは、すでに前年の暮から始められていたかもしれない。
 『往生伝』に出てくる多くの往生者たちが、その生涯の総仕上げの時に断食の行を選んだように、西行もまた枯木のような姿になって「そのきさらぎの望月のころ」を選び、その日を目指したことだろう。


 彼の死が、後世の人に全面的に美化される傾向にあるが、臨死に際してはこの断食死のような壮絶な最期を迎えたに違いない。

 この断食死を思うとき、拙僧の脳裏には緩和ケア病棟で食事も摂れないで衰え行く亡き妻の姿がまざまざと思い出されるのである。
 妻は死ぬ約二十日前から摂食しなかった。西行のように意識して断食したのではなく摂食したくともできなかったというか、身体が食物を受け付けなかったと思うが結果として断食には違いない。これにつけても、人生の終焉というものがいかに厳しいものかということを感じずにはいられない。

・吉田兼好の『徒然草』に見る死生観
 吉田兼好(1283-1352)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人、遁世者、歌人、随筆家である。
 清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と並んで日本三大随筆の一つである『徒然草』の作者でもある。
 この『徒然草』の根底を貫く主題は無常すなわち死である。全編これ死に対する心構えをもって組み立てられているといっていい。文章で最も力があるのもそれらの章である。その中で兼好がまず警告するのは、人間にとって死はいつ訪れるかしれないものだ、その事実を絶えず心に置いて対処しておけ、ということである。

  若きにもよらず強きにもよらず、思い懸けぬは死期なり。今日まで遁れ来にける
 は、ありがたき不思議なり。暫しも世をのどかには思ひなんや。

 これは、『徒然草』下巻の筆頭にある章である。
 若い人であれ、強健きわまりない人であれ、どんな人間にもいつ襲いかかってくるかもしれないのが、死の時である。今日までそれに襲いかかられずに済んだのは、不思議というほかはない。そのことを思えば、わずかなあいだでもこの世をのんびりしたもの、先へいくらでも続くものと思い込んでいていいわけがない。

 人生に死があるという事実を知らぬ者はいない。だが大抵の人は、自分はまだ若く、健康で、差し当たり死は自分には縁遠いことだと考えている。
 兼好のいいたいことの主眼は、生には死が必ず来る、死を免れる生はない、しかもそれはいつ来るかも知れないと、その事実に目を向けさせた上で、しかし死があると自覚すればこそ生の味わいも深くなる。死の自覚こそ生を深める。死は生の有難さを知らせるものだと考えているのである。問題は死ではなく、生をいかにしてより良く生きるかにあるのである。生を良く生きるためには、死の自覚が絶対に欠かせないといっているのである。

  死期は序を待たず。死は、前よりしも来らず、かねて後に迫れり。人皆死ある事を 
 知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯 
 より潮の満つるが如し。

 人がいつ死ぬか、死の訪れるときは順序を踏んでやってくるのではない。死は前から姿を見せてだんだん近づいてくるのでもない。知らぬ間に後ろに来ているのだ。人は誰でも死があることを知っているが、死の到来はそんなに急だとは思わずに生きていると、思いがけぬときにそれがやってくる。その様はちょうど、沖の干潟はずっと水が来ず、潮の満ちてくるのはまだまだ先だなと思っているうちに、いつの間にか背後の磯に潮が満ちているようなものだ。

 この力強いイメージで語られる死の到来も、つまりそういうものだから常にしっかり心構えを作っておけという勧めのためなのである。つまり、『徒然草』の章段でいえば、これらの警告はすべて次の第九十三段の、死を恐れるなら生を愛すべしという勧めのためなのである。

  されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。
  愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたずがはしく外の楽しびを求め、この財を
 忘れて、危く他の財を貪るには、志満つ事なし。行ける間生を楽しまずして、死に臨
 みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故な
 り。死を恐れざるにあらず、死の近き事を忘るるなり。もしまた、生死の相にあずか
 らずといはば、実の理を得たりといふべし。

 これを訳すと次のようになる。
 だから死を憎むならば、生を愛するがいい。生きて今ある喜びを日々楽しまないでいてどうしよう。ところが愚かな人は、生きて今あるというこの最高の楽しみを忘れて、他の楽しみを求める。この一番の財を忘れて、他の財を貪る。そんなことで心が真に満たされることのあるはずがないのである。生きている間に生を楽しまないでいて、死に臨んで死を恐れるなどというのは、おかしな話ではないか。大方の人が生を楽しまないのは、心の底から死を恐れていないせいだ。いや、死を恐れないのではない、死が近いということを忘れているからだ。ただし、もしここに自分は生死などということに一切心を労しないという人がいたら、その人こそは真の悟りを得た人だというべきだろう。

 実際、死はすぐそこにあると覚悟しだすと、生きて今あるというこの今までは当たり前のこととして有難くも何でもなかった事実が、実はこの一事こそが人間にとって最も有難い幸せな事だと感じられるといっているのである。

 別の表現をすれば、生きている限り、在るのは生だけである。死は存在しない。存在しないものについて人は知ることはできない。人が知ることができるのは自分が生きていることについてだけである。ならばその生を最も良く生きようとすることこそが、人間の義務でなければならないが、より良く生きるためには、常に死が近いことを自覚しなければならないといっているのである。

・貝原益軒の著書に見る死生観
 貝原益軒(1630ー1714)は、江戸時代の医学者兼儒学者である。
 幼い頃から読書家で、非常に博識であった。ただ書物だけにとらわれず、自分の足で歩き、眼で見、手で触れ、あるいは口にすることで、確かめるという実証主義的な面を持つ人物であり、また世に益することを旨とし、著書の多くは平易な文体でより多くの人に分かるように書かれている。
 七十歳で藩役を退き隠居の身になってから著述業に専念、著書は生涯六十部二百七十余巻に及ぶが『養生訓』は、その中の一作である。
 この『養生訓』は、彼が八十三歳の1712(正徳二)年、実体験に基づいて書かれた書物であるが、長寿を全うするための身体の養生だけでなく、心の養生を説いているところに特徴がある。

  養生の術を学んで、よくわが身をたもつべし。是人生第一の大事なり。人身は去り
 て貴とくおもくして、天下四海にもかへがたき物にあらずや。

 これは『養生訓』の冒頭に出てくる言葉である。これに相当する言葉が「身をたもつ」という言葉である。益軒はいう。人は何よりも「養生」を学んで健康を保つことである。これが人生で一番大事なことである。人の身体こそ最も貴く重いもので、全世界の何ものにもかえがたいものではないか。
 今日流にいえば、人生にとって一番大事なのは健康であり、人の命は地球よりも重い、という意味である。現代では、健康こそ第一、そして人の命こそ最も尊いということは当然のことと考えられている。しかし、江戸時代にあっては極めて革新的な思想であった。当時はまだ武士たちは「身を鴻毛の軽きに比し、君のため身命を捨てる」といった道徳がまかり通り、それが庶民にも影響を及ぼしていた時代であった。そうした時勢において、はっきりとこの世界で一番重いものは人間の生命であり、それを宿す身体である。だから養生を心がけて健康でなくてはならない、と宣言したのである。
 健康を人生の主要課題にした益軒のこの宣言は、これまでの日本人にはなかった価値観の登場であり、以後、養生という健康にかかわる概念は、日本人の死生観にまで深くかかわることとなった。
 養生というと、今日では主に病後の手当て、あるいは保養や摂生の意味で使われているが、江戸の人たちにとって養生とはどういう意味を持っていたのであろうか。
 彼らにとって養生とは、単なる病後の手当てや病気予防の健康法ではなく、実はもっと深い意味を持っていた。それは現代流行の健康法という狭い意味ではなく、人の生き方にかかわる事柄であり、どう生きるのか、何のために生きるのか、という人生の指針であり指標であった。その意味で、養生という理念は江戸を生きていた人々が共有していた一つの文化でもあったといえる。
 養生とはしたがって、自分や家族の個人的な健康願望に応えるものであったが、さらに江戸という社会・文化に根ざした価値観、死生観に立脚して、「いかに生きるか」を説いたものである。生き方の哲理に裏打ちされた健康の思想と実践、これが養生ということである。
 繰り返しになるが、この養生という概念に集約される江戸人の生き方の基本的な思想を最も総括的に教えてくれる著作がこの貝原益軒の『養生訓』である。本書は実は江戸時代随一のロングセラーであり三百年も前に書かれた本が未だに読まれ続けている。そのことは、養生ということが、いかに日本人の生き方に広く深くしみ込んできたかを物語るものである。
 心によってからだを養い、からだによって心を養う。心は楽にして、からだは使え、という次の言葉は、『養生訓』の真髄ともいえる言葉である。これは、家にあっては静かに読書し、一方よく出歩き、旅支度を整えるのも迅速であったという益軒自身の生活態度そのものから出た言葉である。

  心は楽しむべし、苦しむべからず。身は労すべし、やすめ過すべからず。

 つねに「楽しむ」ことを説いていた益軒に『楽訓』という著作がある。そこには人間いかに楽しむかということが、心をこめて語られている。益軒が挙げた楽しみとは、自然の楽しみ、読書の楽しみ、旅の楽しみであり、さらに交際の楽しみも忘れていない。そして、今日のような外面的な享楽ではなく、何よりも「楽しみは内にあり」ということを重んじていた。
 益軒のこうした人生哲学の背後には、吉田兼好と同じ人生の短さへの切迫感と来世への期待を抜きにした死生観があった。益軒は『楽訓』で、「いのち短き事、たとへば朝顔の如く、死期の近きにあらん事わするべからず」といい、また「再び生まれくる身にあらざれば、今よりのち一日も早く日月をおしみ」という。特に老いては時のたつのが早い、だから「時刻を惜しみて、一日を以十日とし、一月を以一年とし、一年を以十年として楽しむべし」と説くのである。ここには、この世とこの身を信じるがゆえに、寸陰愛惜という兼好と同じ時間哲学、つまり瞬間瞬間を絶対化し自己拡大して生きるという死生観が読みとれるのである。

 ところで、益軒は『家道訓』という著作で、「人に五計あり」としてライフサイクルを設計し、十歳代は父母に養われる「生計」、ニ十歳代は身をたてる「身計」、三十歳代から四十歳代に至る年代は家を保つ「家計」、五十歳代は子孫のことを考える「老計」とし、そして六十歳以上は「我が死後の事をいとなみはかる」べきときで、「死後の事を早くいとなまざれば、死にのぞんでくやしがれどかいなし」とある。この最後については特に何計とも記してはいない。五十歳代の「老計」は自分の老いのためでなく子孫のためである。我が身の事は六十歳になってから考えるが、その時は「我が死後の事」を準備するときであるというのである。
 益軒は『家道訓』で、「老人は早く棺をこしらへ、葬具をそなへ置くべし」と説いていたが、彼自身、生前に自分の棺を作らせていた。彼は生涯の伴侶を失って一年とは生きていなかった。おそらく彼は自ら死を待っていたのであろう。
 その益軒が世を去る前年、八十四歳の時、妻の東軒が「愛敬」と書き、益軒が添え書きした夫婦合作の書がある。東軒はこの年夫に先立つ。この書からもうかがえるように、益軒は人道主義の思想を先取りしていたといえる。官学の朱子学にも片寄らず、仏教や神道にも距離をおき、天地自然を尊び、実践による経験を重んじ、頭だけでなくからだを信じ、現実と現状を肯定し、明るく楽しく生きるという、極めて平衡感覚のとれた生き方を貫いた。
 江戸時代の平均寿命が約四十五歳であったから、彼はその倍近く長生きしたことになる。今でいえば百歳を超えるほどの長寿であったろう。死の直前まで執筆活動を続けており、今でいえば聖路加国際病院の理事長であった日野原重明先生を連想させる。老いても生ある限り全力投球して生きたからこそ、その生きざまが反映された『養生訓』も説得力があるのである。

・藤村操をめぐる死生観
 藤村操(1886-1903)は、旧制一高の学生の時、日光の華厳の滝に投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭の感」によって当時のマスコミ及び知識人に波紋を広げた事件である。
 すなわち、1903(明治三十六)年5月22日、日光の華厳の滝において、傍らの木に「巌頭之感」を書き残して投身自殺した。厭世観によるエリート学生の死は立身出世を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追うものが続出したとのことである。

 日光方面は、妻が亡くなる五年ほど前に私と二人で旅行した思い出の地である。
「いろは坂」を登り、日光東照宮を参拝、中禅寺湖周辺を散策し、華厳の滝が良く見える展望台から滝壺を背景に二人並んで撮った写真を今でも大切に持っている。
 私は、高さ97メートルの岸壁を一気に落下する壮大な滝を見ながら、多感な青年学生藤本操の自殺の心境を偲んだものである。

 彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石やその同級生等の精神にも大きな打撃を与えた。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、うつ病になった一因ともいわれる。
 なお、自殺の原因は、「巌頭之感」の内容のとおり哲学的悩みによるものである。
 しかし、自殺直後から藤村の自殺について様々な原因が取り沙汰された。哲学的悩みと見る者がほとんどであったが、自殺の数か月後に自殺前藤村が失恋していたことが明らかになったことからこれを自殺の原因と考える者もいた。
 失恋説については、藤村操の友人である南木性海が公表した十一通の手紙によって明確に否定されている。それに、南木に限らず、藤村操をよく知る友人らはみな一斉にこの失恋説を否定している。
 人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。藤村操はこれに真っ向から対峙した。

 我が師板橋禅師様も、若いころ「何のために生きるのか」、「どう生きたらいいのか」と考え続け、大学に行っても教授方に「人生とは何ですか」、「何のために生きるんですか」と本気で事ある度に聞いて、同級生からは「同じことばかり聞いて何になるんだ」と呆れられたそうである。
 米寿を過ぎた今「仏法とは何か、何のために生きるのか」と聞かれたら「無為自然」と応えるのが関の山だということである。
 「無為自然」とは、一言にしていえば、「あるがまま」ということであろう。
 曹洞宗の宗祖道元禅師は、真実の仏法を求道して宋まで渡ったが、あっと気付いたら「眼横鼻直」、つまり「眼は横、鼻は縦についているように、悟りといっても特別なものは何もなく、ごく当たり前のことなのだ」と言われ、「空手還郷」すなわち、教典や仏像など何も持たずに素手で日本に帰って来られた。
 また、曹洞宗総持寺の御開山の瑩山禅師は、師匠の義介禅師から「平常心是道」と示されて「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢ては飯を喫す」と答えられたという有名な話がある。腹が減ったら飯を食えばいい、寝たいときには寝たらいい。当たり前のままでいいというわけである。
 曹洞宗の僧侶になるための儀式の一つである拙僧の法戦式の禅問答では、ここも出題された。
 以上のように悟りに到達した高僧の境地は、それぞれ表現は異なるが同契のようである。
 なお、藤村操が遺書として残した「巌頭之感」の全文は、以下のとおりである。

            巌頭之感

  悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
  ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ。万有の真相は
  唯一言にして悉す、曰く「不可解」。我この恨を懐て煩悶終に死を決する
  に到る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る
  大なる悲観は大なる楽観に一致するを。

 藤村は、この世に生きた証しとして「巌頭之感」の檄文を残して投身自殺した。
 いずれにせよ、彼の純粋で一途な凛とした死生観が凝縮されているではないか。

・三島由紀夫の死生観
 三島由紀夫(1925-1970)は、戦後の日本文学界を代表する作家の一人である。晩年は政治的傾向を強め、三島事件を引き起こした。
 自衛隊を軍隊と見なしこよなく愛した三島由紀夫の強烈、かつ、独特な死生観について以下触れることとする。
 三島事件が起こった時は、小生は海上自衛官として海外を遠洋航海中であったが、何の縁あってか、それから二十年以上経過した四十歳の時から数年間、三島が切腹した市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部総監室の隣の国際法の研究室で勤務した。当時海上自衛隊幹部学校がその総監室に隣接しており、小生はその研究室に籍を置き、国際法の教官をしていた。そのことが小生の脳裏にあってのことかもしれないが、三島事件には、日本人の死生観をめぐる問題が多く包含されていると考えられるので、敢えてここに取り上げることとした。

 太平洋戦争後、二十五年も経った1970年に、市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部総監室で切腹を遂げた文豪三島由紀夫の事件は、世界中に衝撃を与えた。
 切腹した三島は、明確に切腹つまり自決と自殺を当然のように分けて考えている。主体的に自ら死に赴くことと、己の弱さのために死にゆくのは根本的に違うということだろう。その意味で三島は世代的に先輩に当たる太宰治(1909-1948)の文学とその自殺を異様なほど嫌った。
 彼は、明らかに切腹という行為を「日本の文化的理念」として捉えている。
 三島の精神の中には、学徒出陣した彼らと同じように自決なり、玉砕できなかったという負い目のような純粋さが、その理知的な文体の中には溢れている。彼が軍隊に行けなかった理由は、ただ一つ子供の頃に体が頑健でなかったという一点であった。その弱さを克服するために、三島はボディビルに始まって、ボクシングや空手まで習い、剣道修行にも励んだ。
 いつしかひ弱だった体は、別人のようになった。三島は己の鍛え上げた体を誇示しながら、日本の文化を継承する理念を持つようになると、武士の理念としての切腹という行為に異様に傾倒し始めた。その結果が、小説『憂国』(1961年)として結実した。また自らで『憂国』を映画化(1965年)し、主役を演じて切腹の作法を忠実に再現して見せた。
 それは市ヶ谷での三島事件のリハーサルとも考えられる。
 一体何が彼の中であったのか、なぜかくも三島の中で、日本文化の武士道的部分のみが強調されてしまったのか、そして最後に輪廻転生をテーマとした四部作の長編小説『豊饒の海』(1965-1970)の最後の章「天人五衰」(1970年)を書き終えて死んだ。おそらく三島の精神には、自分は次の世に別の存在に転生して、自分の魂がテーマとする何ものかを実現するために生まれてくるぞという確信のような死生観を持っていたに違いない。
 人は三島由紀夫に限らず、自ら死に赴くとき、自分なりの正当な死の理由というものを見つけようとする。三島の場合、自らの腹を切ることの理由としては、憂国(日本精神を忘れた日本人という国家の現状を憂いてのこと)であったといわれる。

 以上三島由紀夫の死生観について述べてきたが、最後に余談ではあるが次を加えて本項を閉じることとする。

 1957(昭和三十二)年ごろ、花嫁候補を探していた三島は、銀座六丁目の小料理屋「井上」の二階で独身時代の正田美智子様(現美智子上皇后)と見合いしていたとのことである。また同年三月十五日三島は母と共に正田美智子様が首席で卒業した聖心女子大学の卒業式を参観したともいわれている。
 もし美智子様が現上皇のラブコールに応じず仮に三島由紀夫と結婚していたなら、彼女は幸福とはいえない人生となっていただろう。何となれば、文学者にとって「家庭の幸福は文学の敵」といわれる位であり、また三島自身も小市民的な幸福を嫌っていたという。
 三島が切腹する直前、現場のバルコニーから演説する際に散布された人生最後の檄文の内容及び著作物からも分かるとおり、天皇を熱烈に信奉しているものであることからして、彼は、美智子様のお相手が将来天皇になられる皇太子であることを事前に知ったとすれば、名誉に想い喜んで自ら身を引いたであろう。
 いずれにせよ、これまでの上皇ご夫妻のお幸せなお姿を拝見するにつけ、小生は美智子上皇后の運命の選択は極めて賢明であったと雲の上の方に誠に失礼極まりない余計な詮索をさせていただいている次第である。

〇自死者(自殺者)の死生観
 自死と自殺は同じ意味であるが、自死はその人なりの信念に基づいて本人の本意であろう死という印象を受ける。一方自殺は一般的な表現であるが、自死と比較すると人生の敗北というか気の毒な事情で本意ではないであろうという印象を受ける。
 したがって、最近では一部の自治体では自死という表現を使うよう改めているところがある。
 自決とは、自死(自殺)の一種ではあるが、主義主張を訴えたり、責任を取るために自分で死ぬことをいう。例えば作家三島由紀夫の死がこれに該当する。
 さらにまた自害、自刃、自尽も自死(自殺)ではあるが、自決とほぼ同義である。
 なお、殉死とは主君などの死を追って臣下などが死ぬことである。例えば日露戦争の旅順攻略時の第三軍の司令官になった乃木大将は明治天皇の崩御の後を追って切腹自決したが、これは殉死とされる。
 以上が自死、自殺、自決、自害、自刃,自尽、殉死の意味であるが、ここではこのことに余りこだわらずに以下説明する。

 1998年に全国の自殺者の数が、統計を取り始めてから初めて三万人を超えて以来、ここ二十数年間、その総数はほぼその水準を維持している。2006年に自殺対策基本法が施行されたが、残念ながら大きな変化は見られない状態である。最新の「自殺対策白書」によると、自殺者の数は交通事故による死者の約六倍に上っている。特に働き盛りの若年・中堅層の男性の自殺死亡率が高い傾向にあることは憂慮すべきことである。
 自殺の原因としては、「健康問題」、「経済・生活問題」、「家庭問題」、「勤務問題」の順に挙げられているが、特に雇用・経済環境などが大きく影響している可能性は否定できない。年代別では五十歳代が最も多く、全体の約二割を占め、六十歳代、四十歳代、三十歳代がこれに次いでいる。職業別では、「無職者」が全体の半数以上を占め最も多く、次いで「被雇用者・勤め人」、「自営業・家族従事者」、「学生・生徒等」の順となっている。そして、自殺は、癌や心疾患などに次いで六番目に多い死因でもあり、ニ十歳代、三十歳代の死因の第一に挙げられている。諸外国と比較しても、日本人の自殺率は極めて高くアメリカの自殺率の約二倍になっている。

 それではなぜ日本人は自殺する傾向が強いのか。健康上の理由で生きるのが辛いから、経済的に苦しいから、夫婦の仲が良くない、家族がバラバラで崩壊するから、あるいは職場の上司、同僚との間が上手くいっていないから等々の理由で死に逃避してしまうのが現状であろう。これを社会心理学的視点から見て、一体日本人の心の中で何が起こっているのか。自らを殺すという意味における自殺という行為は過去においてどんな意味を持っていたのか、そして今どのように現代人が捉えているのか、死生観の変遷を考慮しつつ若干省察してみたい。

 妙ないい方をすれば、日本は切腹の国として世界に知られている側面もある。
 かつて切腹は、源氏と平氏が並び立つ時代から、明治維新がやってくるまで、およそ七百年間の長きにわたって、日本の実質的権力者だった武士階級にとっての名誉ある死の形と見なされてきた。

 一方西洋においては、日本ほど自殺者に対して寛容ではない。カソリックでは、墓さえも作れない。プロテスタントの場合は、それほど厳しくないが、決して褒められた行為とはみなされなかった。これはキリストという人物が、死よりもはるかに苦しい責めを受けながらも、これを原罪として受け止めて、天に召されて行った精神を酌んでのことだろう。
 しかし市民が個人の意識に目覚めて以降、自殺も個人の自由な意志に基づく一種の権利と見なされるようになった。「神は死んだ」と反プロテスタント的な言葉を述べた哲学者ニーチェは、自殺について「自由な権利」とまで言い切って、自殺が個人の権利を担保する行為のように規定した。しかし依然としてキリスト教を精神的基盤とする欧米社会にあって、自殺行為は、日本ほど寛容をもって受け入れられることはない。今でも欧米社会では自殺はある種の禁忌として、日本のように切腹の美談として語られることは稀である。

 日本は、法治国家となってから自殺は憲法により許容されている。すなわち日本国憲法第十三条には、「個人の尊重」として、「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と明記されている。日本の法学会でも、おおむねこの第十三条の規定によって、日本国民は、憲法上「自決の権利」を有していると解釈されている。この「自決の権威」を法的根拠として、極端な表現をすれば自殺は個人の裁量に委ねられているということができる。
 だが拙僧は自殺が罪とならないことが、日本が現在のような自殺大国となってしまった主要因だとは思わない。むしろ問題なのは、自殺を思い止まらせる社会システムが世の中から消えてしまったことの方が問題だと考える。それは、各地に「自殺110番」や「自殺志願者の駆け込み寺」あるいは「自殺カウンセリング機関」のような施設がない、というようなことをいっているのではない。拙僧がいいたいのは、過去においては、どこでも存在していた地域や家族の地縁血縁的関係性が希薄になってしまったということをいいたいのである。
 少なくても、日本では自殺という行為が、モラル上からも決して褒められた行為ではない。忌み嫌われる禁忌行為である。昔から日本では自殺者の出した家は、疎まれる傾向があった。特に地域住民の密着度の強い地方では、この傾向は強かった。もちろんある種の差別にも通じる可能性のある共同体的精神構造を必ずしも全面的に肯定するものではないが、「うとまれる」という暗黙の規範が、日本という地縁血縁の強い社会においては、自殺を思い止まらせる強制力として働いていたことも事実である。またかつては、どの地域にも、一度怒れば怖いが、親身になって人の話を聞いてくれる頑固な親父や世話好きなおばさんの一人や二人は居たものだ。
 ところが、今や日本中核家族の傾向が強まって、地方の若者は刺激の強い大都市周辺に集中し、地方は過疎が進んで、高齢者ばかりが目立つ社会になってしまった。
 都会でも核家族化の傾向は同じで、結婚すると父母を捨てて、別の所帯に移ってしまう。結婚をしなくても、親元を離れ、狭いアパートでの一人暮らしを志向する若者が多い。日本が自殺大国になってしまった原因には、やはりこの核家族化の傾向が強まってしまって、それまで働いていた自殺抑制の社会的機能が壊れてしまったことにあるのではないだろうか。すなわちこの社会的構造の変化こそが、即、日本人の自らが自殺抑制の利かない死生観を醸成してしまったものと考察する。

 僭越ながら、拙僧は自殺願望者に対して一言説教しておきたいことがある。
 自殺の方法には、首吊り自殺を始めとして、飛び降り自殺、飛び込み自殺、硫化水素自殺、練炭自殺、焼身自殺、服毒(服薬)自殺、ガス自殺など様々な手段がある。
 日本の自殺者の半数以上が首吊り自殺をしている。この事実は、この方法が他の方法と比較して優れているからであろう。必要なのはぶら下がるためのロープかひもだけであり、かつ、自殺達成率はほぼ百パーセントに近いということである。
 一方絶対に選択してはならない自殺方法は、電車等交通機関等への飛び込み自殺である。電車等を止めることにより遺族に莫大な賠償金が課されることもさることながら、何の関係もない通勤者等周囲に多大な迷惑がかかりまた社会的損失は極めて大である。
 自殺を思い立つ人は、自分の抱える苦悩や絶望に打ちひしがれて、自分の行為が家族や周囲の人々にどんなに大きな有形無形な影響を及ぼすかまでは、全く思いが至らないようであるが、こういった自己中心的な論理は決して許されるべきではない。どんな場合でも周囲のことに思いをいたし、最後まで社会人としての道徳観、倫理観の徹底を肝に銘じておく必要がある。
 要は天から与えられた命をどんなに辛くても貫き通すことが最良の選択である。

〇死刑囚の心境
 人間にとってこの世に絶体、かつ、平等なものがたった一つある。それは遅かれ早かれ必ず訪れる死である。
 こういうことを我々はすでに承知しているのに、余り切実な問題として考えない。普段は死ということを忘れているかのように、毎日の生活に追われているのである。そしてある日突然その時が訪れる。亡くなった妻の場合も正にそうであった。
 その時既に妻の病気は、絶体絶命であり、それは、私刑が確定した死刑囚と同じようなものであるが、病気を持っているのでそれより更に悲惨なものであると前述した。
 それでは実際刑が確定した確定囚の実態はどうなのか。
 長く東京拘置所の医官の経験があり直木賞作家でもある加賀乙彦氏の随筆がその実態を満たしているので、以下その関係個所を抜粋して紹介することとする。

  (前略)
  その頃東京拘置所には、四十人から五十人の死刑囚がいた。一口に死刑囚といって 
 もいろいろで、一審二審で死刑の判決を受けて上訴中の死刑囚もいるし、刑が確定し
 た確定囚もいる。日本の法律では、一度確定した刑は動かすことができないので、本
 当の死刑囚というのはこの確定囚のことだ。刑法によると、こして刑が確定すると、
 半年以内に執行されることになっている。
  ところが、日本では実際に死刑の判決が確定しても、何年も執行されないことがあ
 る。これにはいろいろな理由があるが、一つには法務大臣がハンコを捺さなければ執
 行されないということがあるのだ。中には死刑執行は嫌だといって、ハンコを捺さな
 い大臣もいる。そこで、法務大臣が代わるたびにドッと死刑執行が行われたり、何年
 も行われなかったり、ということになるのである。
  死刑囚の立場に立つと、いつ執行されるか分からない。アメリカの半分くらいの州
 では、死刑の判決があった日に、執行日も指定されることになっている。
  ところが、日本では法務大臣の胸先三寸で執行日が決まる、といってもいい。法務
 大臣があいつを殺してやろうと思えば、ハンコを捺し、すると五日以内に死刑が執行   
 される。死刑囚は法務大臣がいつそのように思うかは伺うことはできない。アメリカ
 のように何月何日に死ぬということが分かっていると、おそらく恐怖の連続であるの
 に比べ、日本の場合は不可知で唐突に死が来るわけだから、その方が慈悲深いのでは
 ないか、と考える人があるかもしれないが、これはいかにも日本的な考え方である。
  法務大臣がハンコを捺すとどうなるかというと、ある朝、看守数人が突然やって来 
 て「今からお前を死刑にする。すぐ支度をしなさい」という。
  そういわれてしまえば、それから二時間ほどたつと、絞首台に吊るされるというこ
 とになる。拘置所の朝の仕事が始まるのは午前七時、死刑が執行されるのは、午前九
 時から十時の間だから宣言されると大体二時間くらいで絞首台に吊るされることにな
 るのである。
  死刑の執行は日曜日と祝祭日はやらない。しかし、ウイークデーは、もしかしたら
 明日の朝殺されるかも分からない、と思ていなければならない。つまり、いつも二十
 四時間以内に死があるわけである。土曜日や祝祭日の前日の午後になって、やっと死
 があってもそれは二日先だと思う。死刑囚たちはこういう苦しみの連続の日々を何年
 間も送らなければならないのだ。
  朝、看守が歩いてくる。それが一人ならいいけれども、五、六人の足音がしたら、
 それは自分のとこへ来るのではないかと思う。毎朝毎朝が大変な緊張である。いつお
 迎えが来るか、誰のところへ来るか分からない。
  こういうのが日本の死刑囚の現実であり、私は東京拘置所に行って、初めてこうい
 うことが分かった。
  また、死刑囚はなぜ拘置所に拘留されていて、刑務所でないかというと、死刑囚に
 とって刑の執行は「死」であるからだ。まだ生きているということは、すなわち、未
 決囚であるから、刑務所ではなくて、拘置所ということになる。
  彼らは未決囚であるから、わりと自由が許されている。懲役囚だと強制労働がある
 が、死刑囚にはそれもない。
  ただし、死ぬまでは健康に生きなくてはならない。刑の執行前に死んでもらっては
 困るわけで、拘置所側は栄養面をはじめ、いろいろ気を遣う。換言すれば死刑囚は十
 分に気を遣われて飼われている。そういう感じがしたものだ。
  拘置所の実態を知らないうちは、死刑囚といえばほとんどは殺人犯で、悪い人間で
 あるから、当然殺されていいと考えていたが、拘置所の内部を知るにつれて、私はそ
 う考えていた自分をだんだん恥じるようになった。
  そうして私は日本にいる死刑囚全員に会おうと考えた。当時、東京拘置所にいた確
 定囚は二十人くらい。全国合わせて、百人くらいの死刑囚がいた。名目は診察という
 ことにすれば会うことができる。
  というのも、死刑囚にはノイローゼの人が多かったからである。半分以上が拘禁ノ
 イローゼにかかっていた。興奮状態、被害妄想、ヒストリー状態、それから爆発状
 態。身体中を傷付けたり、自分の手首を嚙み切ったり、壁に頭をぶつけて脳震盪を起
 こしたり、ひどい場合には頭蓋骨に損傷を起こしている例もあった。大学病院ではそ
 こまですさまじいノイローゼを見たことがなかった。
  このノイローゼを分かりやすく考えると、人間の一番理性的な面を麻痺させて、や
 や原始的な状態に退行している現象だといえる。理性的な状態で物を考えると、死と
 いうのは恐怖そのもので、到底理性では持ちこたえることができない。しかし、その
 理性をちょっと麻痺させれば、死はそれほど恐怖の対象ではなくなる。
  犬や猫が死についてどのように考えているか分からないが、多分あまり考えていな
 いのではないかと思う。こういう犬や猫の状態まで人間が退行すると、死について何
 も考えない状態になる。死刑囚というのはそういう状態になっているのである。
  死刑囚の監房は実に賑やかである。あっちで大声で読経をしている者があれば、こ
 っちでは負けじと声を張り上げて、歌を歌っているという有様である。一方では毎日
 俳句や和歌を作り、それも非常に多作で一日に何百という俳句を詠んだりする。
  彼らの特徴は忙しいということである。何かに追われるようにせかせかと暮らして
 いる。「引かれ者の小唄」ということばがあって、国語辞典には「死刑囚が自分は死
 を恐れないぞということを示すために、見栄を張るためにわざわざ胸を張って見せ
 る」とあるが、私はこれは間違いで、意識してやっているのではなく、陽気になって
 しまっているのだと思う。死を恐れない状態になってしまっているのである。
  それはそうだろう。前に触れたように、死刑囚の朝はいつも大変な緊張が強いられ
 ている。近い将来に処刑されるという過酷な現実があれば、ノイローゼに逃避するの
 は当たり前だ。
 
  だが、私は「大部分」の死刑囚がノイローゼに罹っているといった。すなわち、そ
 うでない死刑囚もいるのである。もちろん数は少ない。例外的な死刑囚というべきか
 もしれないが、中で特に私の印象に残っているのは、1953年に新橋のメッカという
 バーで起こった「メッカ殺人事件」の正田昭、それに1968年に起きた「横須賀線爆
 破事件」の若松善紀という二人の死刑囚である。
  正田昭は慶応大出のインテリであったが、若松善紀は中学を出ると大工の徒弟にな
 ったという人物である。この若松善紀に私を紹介してくださったのが上智大学の福島
 章先生である。手紙をやり取りしたり、面会に行ったり、出会ってから彼の刑が執行
 されるまで、私たちの交際は三年ほどだったが、ある時面会に行くと、彼はこういう
 ことをいった。
  「私は死刑囚の確定囚です。いつ執行されるか分からない。どうしたら死刑囚の過
 酷な現状から抜け出ることができるかということは最大の問題です。どうしたらいい
 かということで悩んでいます。一つは短歌を作ること、短歌を作るということはこの
 現実の世界とは別な世界を自分の中に作る、芸術によってこの現実の過酷な状況から
 別の世界へ逃れ出る一つの手段です。だから短歌を死んでも作りたいのです」
  彼はキリスト者として行きたいと願い教誨面接を受けた。教誨師は牧師さんだった
 が、あるところまでの信仰の導きがあったとき、その牧師さんが病気になって来られ
 なくなってしまった。若松は自分の信仰に疑問を抱くようになり、一転して、「もう
 私は信仰がない。クソクラエ」などとわめき散らしたり、他の囚人と喧嘩するほどに
 なってしまった。
  これは拘禁ノイローゼになる一歩手前の状態である。そこで私は、あなたは牧師さ
 んが来ないといって嘆いているけれども、私だってあなたのことを心配しているの
 だ、と手紙を書いた。すると、次からは前と同じように冷静な手紙が来るようになっ
 た。さらに、病気の牧師さんの代わりに、別の牧師さんから教誨を受け、ガラリと明
 るくなった。
  死というのは暗闇だと思うのが普通であるが、彼は光明だと考えるようになったの
 である。それと同時に落ち着いてきた。死の一か月ほど前のことである。
  彼からもらった手紙、特に最後の手紙ー執行を宣言されて短い時間に書いたものー
 とか、原稿用紙五百枚におよぶ手記をここに引用できれば、彼がいかに平安のうちに
 死んで行ったかを理解してもらえると思うが、いろいろな事情でそうする訳にはいか 
 ない。
  正田昭については『宣告』(新潮文庫)という小説のモデルにしたので、興味ある
 方は読んでいただきたいと思う。騒々しいまでの死刑囚の監房の中で、その静かさゆ
 えに際立った囚人であったことが、私の印象に深い。偶然私と同じ年齢であったが、
 物静かだったので、年上のような気がしていた。
  同じ死刑囚の中でも、原始反応の状態で荒れ狂って死ぬ人もいるが、そしてこうい
 う人が大部分であるが、若松善紀や正田昭のように、静かで穏やかな死を迎える人も
 ある。
  彼らの「時間」は非常に濃密なものである。それは無記懲役囚と比べると、なおの
 こと明白となる。無期懲役というのは死刑で殺されない代わりに、死ぬまで刑務所の
 中にいなければならない。したがって、時間が際限なくあるわけである。いつか分か
 らなくても、近い将来に死を控えている死刑囚と比べると、当然時間は希薄なものに
 なるだろう。だが、この無期懲役にも我々と同じように、神による死刑執行は待って
 いるのである。
  私はパスカルがいったように、生と死の問題を考えるとき、死刑囚はモデルみたい
 なものを提供してくれていると考える。私は死刑囚との付き合いがかれこれ三十年に
 もなる。その間、実に多くの死刑囚と会って来た。ところが、みんな同じ死刑囚であ
 りながら、死に方は実に様々である。死刑囚の死はこういうものであると、要約する
 ことはとてもできない。
  ということは、人間にとって、死に方こそがその人の一生を要約するような大事な
 ことで、その死に方を人間はいろいろなふうに選択できるということを示しているの
 ではないだろうか。
  私はもし自分が死刑囚であったら、若松善紀や正田昭のように死にたいと思う。し
 かし、それは理想であって、彼のような死に方は自分にはおよびもつかない高みにあ
 ると思う。自分が死ぬときはどうなるか。死への準備ができていないから、自分の手
 に噛み付くかもしれない。だが、少しでも自分の手に噛み付くことがないように、少
 しずつでも準備しよう。「時間」もそのためにこそあるのではないか。
  これが私が死刑囚から教えられたことである。

 文中で、死刑囚が死の恐怖から逃れたい一心で理性を麻痺させるためにいろいろな手を講じるとのことであったが、妻が入院した緩和ケア―病棟でも臨終の約一か月前頃から病苦から逃避するための薬の投与を医師から盛んに勧められた。だが妻は最後まで苦しくても意識が混濁するような薬の使用は、寝る前の睡眠薬以外拒否し続けた。そして臨終までの精神状態は、まさに文中の正田昭を見るようであった。
 生前から忍耐強く臨終まで取り乱すことなく一貫してその生活状態は変わらなかった。
 日野原重明氏(聖路加国際病院理事長)、ホスピスの草分的存在でもある柏木哲夫氏(淀川キリスト教病院名誉ホスピス長)、山折哲雄氏(宗教学者)などが「人間は生きてきたように死ぬ」といわれた通り妻は、臨終までその生活態度を維持した。
 この凛とした妻の生き様死に様は、拙僧には到底まねができない。


尊厳死・安楽死について
 今回は、尊厳死・安楽死について考えてみたい。
 今ここにいる拙僧は、人間としてこの世に生を受けた瞬間から、一個の独立した生命体である。自分の人生を誰かに代わって生きてもらうことができないように、自分の生命の終わり方についても、どうありたいかを、元気なうちに、自分自身の考え方で、はっきり方向付けておくことが必要であろう。
 日本でもリビング・ウイルの考え方がかなり普及している。リビング・ウイルというのは、元気で正確に判断できる状態の時に、将来、もし、治る見込みのない病気に罹った時、そして、自らその病気の治療について判断が下せないような状態になって、死期が迫っている時に、どのような治療を望み、また延命の仕方や生命維持装置などの装着について自らの意思を明確に記した文書のことを指す。「日本尊厳死協会」の「尊厳死の宣言書」や「終末期を考える市民の会」の「終末期の宣言書」などがある。最近は、それに加えて、医療に対する本人の希望を代理して決定する人を定める「医療判断代理委任状」を内容に含む、事前指示書と呼ばれるものも知られるようになった。
 日本尊厳死協会の入会者は、尊厳死の宣言書に署名、それが尊厳死協会によって登録、保管され、会員証と原本証明済みのリビング・ウイルのコピーを常に携帯し、医療の場で示すということで意思の表明がなされている。その内容は、次のとおりである。

  尊厳死の宣言書(リビング・ウイル)
  私は、私の傷病が不治であり、且つ死が迫っている場合に備えて、私の家族、縁者
  ならびに私の医療に携わっている方々に次の要望を宣言致します。
  この宣言書は、私の精神が健全な状態にある時に書いたものであります。従って私
  の精神が健全な状態にある時に私自身が破棄するか、又は撤回する旨の文書を作成
  しない限り有効であります。
  ①私の傷病が、現在の医学では不治の状態であり、既に死期が迫っていると診断さ
   れた場合には徒に死期を引き延ばすための延命措置は一切おことわりいたしま
   す。
  ②但しこの場合、私の苦痛を和らげる措置は最大限実施して下さい。そのため、た
   とえば麻薬などの副作用で死ぬ時期が早まったとしても、一向にかまいません。
  ③私が数か月以上に渉って、いわゆる植物状態に陥った時は、一切の生命維持装置
   をとりやめて下さい。
  以上、私の宣言による要望を忠実に果たして下さった方々に深く感謝申しあげると
  ともに、その方々が私の要望に従って下さった行為一切の責任は私自身にあること
  を付記いたします。

 終末期医療を考える市民の会の終末期宣言は、これに対して大きな違いがある。医療方針を選択する、延命か自然死か、そして病名の告知を誰にするのか、また終の場所をどこにするのか、つまり自宅、病院、施設の選択、脳死の状態での臓器提供の意思について書くようになっていることと、代理人を選んで委任することもできるようになっている。
 リビング・ウイルを一つのきっかけとして、元気な時から家族がお互いに医療について、たとえば、終末期のケア、告知のこと、臓器移植、介護、葬儀など、幅広く話し合って、率直に自分の気持ちを伝えておくことが望ましいと考える。これまで紹介した終末期に関する宣言書では、死生観や価値観があまり明らかではないように思われる。

 日本では安楽死と尊厳死はこれまでよく混同されて使われていた。これは医師、法律家、哲学者など、立場によってさまざまな捉え方が出てきたからであろう。安楽死という概念も、ある意味で、私たちの生活が豊かになったからこそ出てきたテーマといえる。
 安楽死には、積極的安楽死と消極的安楽死の二つがある。この二つを明確に区別して考えなければならない。
 積極的安楽死というのは、患者の死期を早めることを直接の目的とする医学的処置を行うことであるから、いわば殺人に等しく、倫理的に絶対許されない行為である。
 これに対して、消極的安楽死は、延命のための人工的な特別な処置を一定の予測のもとに中止したり、あるいは最初から使わないで、自然のままに死を迎えようとすることをいう。これは倫理的にも是認される処置だと思われる。
 現在、日本では尊厳死という言葉が消極的安楽死とほとんど同じ意味で使われている。これは日本の安楽死運動のたどった様々な経緯の中で、定着してきた考え方だといえよう。
 拙僧は、尊厳死を、消極的安楽死というよりも、もっと広く、人間としての尊厳に満ちた死の迎え方という枠内で解釈している。治癒不能の疾患にかかった場合には、速やかに病名の告知と症状の説明を受けて、その後の対処方法は自分で選択して決めたいと思っている。つまり、インフォームド・コンセント(説明と同意)というよりもインフォームド・チョイス(病状説明と自己選択)によって、尊厳を失わない自分自身の最期を全うしたい。
 しかし、取りあえず、拙僧は、「日本尊厳死協会」に登録し、既に「尊厳死の宣言書」を作成している。


◎病名告知について
 今回は病名告知について考察しよう。
 以前は、病気の告知がなされないまま、患者の家族が医師と患者との板挟みとなり、人知れぬ大きな苦労を強いられることが多々あった。
 特に癌の場合、日本では長い間、告知をタブー視してきた。これは医師の間に、「癌であることを知らせると、気落ちして死期を早める」という意見が根強くあったからだろう。これは必ずしも患者への配慮というだけではなく、医師自身がもう打つ手がないという無力感にさいなまれるうえに、告知した後で患者と顔を合わせるのが辛いからだともいわれていた。一面、無理もない話だが、本来、病名を告知することは、インフォームド・コンセントという点からも欠くべからざる行為である。
 インフォームド・コンセントは、日本では「説明と同意」と訳されることが多いが、医療の現場では、医師は必ず患者に病状を説明し、それに対してどういう処置をするかを理解してもらい、患者の同意を得てから治療に当たるということである。患者や家族の側が医師に何もかもお任せしますというような態度ではなく、かけがえのない自分の身体なのだから、納得できるまで何度も尋ねて、自分で判断し、自らの身体の治療については、共同の責任を持つという意識が必要ということである。また、ある程度の医学的知識を持って、自分の病気の治療方針は自分で決める意思が必要になろう。

 今まで私たちは、癌というと、すぐイコール死という暗い固定観念を抱きがちだった。治療法の進歩や新薬の開発によって、そのイメージはどんどん変えられつつあるが、やはり癌は恐ろしい病気である。現在、日本人の三人に一人は癌で亡くなっている。癌になるかどうかは、現在の私たちにはコントロールしようのないものである。私たちにできるのは、これにどう対応するかという心の持ち方であろう。癌に罹ったら、もうすべては終わりだと落ち込んだままになるか、癌イコール挑戦と受け止め、精一杯闘って自分らしく生き抜くかで、それからの人生は大きく変わってくる。

 それでは「いつ」告知するかであるが、日本では治る見込みのある癌の場合には、病名を告知して、抗癌剤の副作用などをよく説明してから使うようになった。これは何よりも真実を告げて、患者や家族とともに、その病気と闘おうという基本的な姿勢が確立されたからであろう。嘘をつかない、ごまかさないという率直な態度が、医師と患者、患者とその家族との間のコミュニケーションと信頼感を深める上で、いかに大切かという考え方が医療関係者の間に定着したからに他ならない。
 問題は、もう治らないと告げる場合である。告知のやり方が適切でなければ、かえって好ましくない結果を招くことにもなりかねない。今や「告げるか告げないか」よりも「いつ」、「どのように」告げるかが論議の中心になっている。患者の状態に十分に配慮する必要があるだろう。
 人間は真実を知る権利とともに、知ることを拒む権利を持っている。患者自身が知りたいという意欲を持っているか、告げないことで患者の心に葛藤を与えていないかなど、様々な点を検討してから行うべきで、決して告げることだけを優先させてはならない。
 既に述べたが再度拙僧の亡くなった妻の場合を例にとると、腹部を開腹した段階で腹水の中にまで癌細胞が拡散し、胃の方は幽門部及び周辺のリンパ節まで癌が転移しており絶体絶命の病態であった。胃を切除し食道と小腸を直結し癌を残したまま腹部を縫合してしまった。手術直後執刀した外科部長から余命半年早ければ三か月と宣告された。結婚以来四十二年間お互い隠し事をしないことが信条であったので、残酷ではあるが手術後約十日後に外科部長にお願いして本人に告知した。例え本人に告知しなくても隠しきれる病態ではなく告知は間違っていなかったと思うが、告知された後無言でその場をあとにした妻の後姿は今思い出しても拙僧にとって残酷極まりない。

 さらに重要なのは、告げてからのアフターケアである。ただ知らせるだけではなく、その後も折を見て患者や家族の不安や苦痛に耳を傾け、温かい援助の手を差し伸べる配慮が必要である。欧米では、チャプレン(宗教家として病院に常住し、信仰についての相談を受けたり、宗教的儀式を行う人)がこの任に当たることが多いが、日本では、医師や看護師が患者の唯一の相談相手ということになり、多忙な医師や看護師では十分にフォローできないケースが多々あるように見受けられる。

告知後のアフターケアは、僧侶となった拙僧の仕事として今後参画することで検討している。そのために、目下精神対話士の勉強をしている最中である。

 ここで、患者本人ではなく、家族への告知が重要な意味を持つ、脳死に陥った場合の臓器移植に関する家族への告知について述べることにする。
 2010年の7月に改正臓器移植法が施行されたことにより、脳死状態に陥った患者の臓器提供の意思が確認できなくても、患者の家族が承諾すれば臓器の提供ができるようになった。それによって、十五歳未満の子供から脳死臓器提供が認められるようになった。1997年に臓器の移植に関する法律が制定されてから2009年までの十三年間に、脳死状態での臓器の提供が八十三人だったのが、改正後は大幅に増加している。特に告知に気を付けなくてはならないのは、脳死に陥った人の意思が不明な時、家族が臓器の提供を判断する場合である。
 患者の家族は、大抵の場合、患者の突然な危篤状態のうちに、短時間で臓器の提供についての決断を迫られることになる。その苦しみ、悲しみは想像を絶する。家族は、患者が生き返ることが不可能なことを理解しなくてはならない。医療者による丁寧な説明は当然のことであるが、医療者の持つ時間意識と、家族が考え、納得するまでの時間意識は異なることを、まず医療者は理解しておく必要があろう。臓器提供の承諾までの時間を無制限に伸ばすことはできないが、あまり急ぐと、あとで臓器提供を後悔する家族が出てきて、問題が生ずる恐れがあると思われる。
 また、家族が患者との別れを告げる時間を十分にとることが大切である。そして、臓器移植が成功したことを、すぐ家族に伝えることも大事であろう。それから、アフターケアとして、移植コーディネーターによる家族への情緒的サポートとレシピエント(ドナーから臓器提供を受けた人)の回復状況が伝えられることなど、ドナーの家族がないがしろにされないことを特に要望する。必要とあらば、即座に家族の悲嘆への援助が行われることも必要になってこよう。これも拙僧の仕事としたいと思っている。


◎脳死・臓器移植について
 今回は、前回の法話に連接させ、脳死及び臓器移植について話をする。
 脳死体からの臓器移植については、これまでにかなり激しい論争があり、様々な論点が出されてきた。
 日本では近代以降、三徴候説(心停止・呼吸停止・瞳孔拡散)によって人の死亡を確認してきた。死亡診断は医師によって行われてきたが、一般人が自ら人の死亡を追認することは容易だった。呼吸が止まり心臓の鼓動が聞こえなくなったことは誰にでもすぐわかった。専門家による臨終宣告と素人によるその追認との間にはほとんど隙間がなく、死亡時点から「人の死」を受け入れていく人々の自然な感情を乱すような徴候を遺体から感ずることは一般的にはなかった。その結果、長年にわたり、死亡診断の安定性が確保できたわけである。
 脳死はこれとは全く異なる。脳死とは、脳出血・脳腫瘍や事故による脳挫傷など一次性脳障害(心臓疾患などによる心停止後脳幹が機能停止する二次性脳障害と区別していう)によって、脳幹及び全脳が不可逆的機能喪失状態になり、呼吸停止した後、心停止に至るまでの間の状態である。
 脳死・臓器移植の問題は、1970年代から議論されてきたのだが、本格的な議論が戦わされたのは、1989年に設置が決められたいわゆる「脳死臨調」(臨時脳死及び臓器移植調査会)においてで、1992年の答申に基づき、「臓器の移植に関する法律」が公布されたのが、1997年のことである。そこでは、死とは何かについて突っ込んだ議論が行われた。その背景には、親しい看取りの人々から切り離されて医師という専門家が管理し決定する死は本来の死ではないのではないか、という重い疑問が投げかけられていた。
 前にも触れたが脳死・臓器移植をめぐる議論にある種の深みを与えた作品の一つに、柳田邦男の『犠牲―わが息子・脳死の十一日』文芸春秋があった。この作品は引きこもりの末に二十五歳で自らの命を絶った息子、洋二郎が、脳死状態で病院にとどまっていた間の作家の思いを語ったものである。洋二郎は悲しい人生の終焉を迎えながらも、自らの生の証として臓器移植も望んでいたので、作家は死に至る息子の心情に思いをこらすとともに、脳死問題への考察を深めようとし、重要な提言を試みた。
 それは「『二人称の死』の視点を」という言葉に要約されている。三人称の視点で死と向き合う医師の立場からではなく、かけがえのない他者と向き合う遺族からの視点から脳死とは何かを考えるべきだという主張だった。「二人称の死」と「三人称の死」という概念は日本人の感受性に響くところがあったためか、多くの人々が用いるものとなり、日本の脳死・臓器移植問題の議論にも一定の影響を及ぼすこととなった。
 こうして1980年代、1990年代(特に後者)の日本では、生命倫理問題が死生学や死生観に関わる重要な問題として考察されることとなったが、これは欧米諸国ではあまり見られない現象だった。欧米では脳死による臓器移植が善であることを疑う声が小さかった。キリスト教の死生観の影響が色濃い欧米では、文化的に多様な形態をとる死生観と生命倫理の接点という問題意識は今日に至るまであまり強くない。
 脳死・臓器移植に関する拙僧の見解は、宗教的及び死生観的観点から否定的である。
 ちなみに拙僧は、ニ十歳代から献血可能な七十歳未満まで114回の献血をしているが、臓器移植ドナー登録及び骨髄バンクドナー登録はしていない。


◎死へのプロセスについて
 今回は死へのプロセスについて考察する。
 かつては、死に直面した人間がどのような心理的プロセスをたどって死に至るものなのかなど、ほとんど考えられたことなどない。病気を治すことが医療の優先的な目的であったから、もう手の施しようのなくなった病人の心理については全く顧みられなかった。こうした末期患者の心の揺れ動きに光を当てた人が、エリザベス・キューブラー=ロス博士(1926-2004)である。
 キューブラー=ロスは、患者が癌のような死病を告知されて強いショックを受けた後、自分の死を受け入れるまでを五段階に分類した。最初はまさか自分が癌にかかったとは信じられず、誤診ではないかと疑って事実を否定しようとする(第一段階「死の否認」)。しかし避けられぬ事態と分かると、どこにも向けられない強い怒りを示す(第二段階「死への怒り」)。次いで、なんとか死なずにすむよう神に祈り、様々な治療法を探し求める(第三段階「死との取引」)。この時期を過ぎると人生の最弱者に変じた我が身に絶望して深刻な敗北感に打ちのめされる(第四段階「抑うつ状態」)。そして第五段階は「死の受容」である。患者は現実世界との完全な断絶を自覚して無への進入に身をまかせ、自分の死を受け入れる態度を見せる。ただし最後に平安な境地を得て静穏に死を受容できるのは、衝撃と否認、怒り、取引、抑うつの四段階を通過した者に限るとした。人によってはこの段階の順序が入れ替わり、ときには甘えやわがままなどの退行現象も見られること、そして絶望した患者を救えるのは周囲の愛情に満ちた支えとカウンセリングが不可欠であるとキューブラー=ロスは述べている。
 仏教では現世の苦しみから解放されて涅槃の境地に入るのを解脱という。これは禅でいう悟りを開いて無我の境地に達することと同義なのだが、キューブラー=ロスの五段階も絶対自由の境地で死を受け入れる大自在(無の世界)に通じるところがあるように思われる。ただし、東洋的思考に馴染んだ日本人にはキューブラー=ロスの研究がいささか時系列、図式的に過ぎると感じられるかもしれない。けれども、物事を割り切る習慣のあるアメリカ人は、このように確然とした結論を好むようである。
 さて亡くなった妻の場合はどうだったか。
 胃癌が発覚し絶体絶命の告知を受けてから臨終までの約半年間キューブラー=ロスのいうような死のプロセスは不明確であった。つまり死の受容がいつ頃か、拙僧にははっきり確認できなかった。死の直前の意識があるまでの間に私を使って身辺整理(墓の件、葬儀の件、子供たちへの宝石など遺品の形見分け等々)の指示を見事に成し遂げた。
 人は自分が生きてきたようにしか死ねない。言い換えると、死にざまはその人の生きざまを忠実に物語っている。この時もこの言葉を再び実感した。

 また多くの人は、死という言葉に対して肉体的な死を考えるが、死には四つの側面があると、上智大学名誉教授アルフォンス・デーケンはいっている。それは①心理的な死、②社会的な死、③文化的な死、そして④肉体的な死である。
 まず、心理的な死というのは、入院した患者がもう生きる意欲を全く失ってしまったら、肉体的に死ぬ前から、心理的に既に死んでしまっているという。次の社会的な死というのは子供たちも見舞いに来なくなり、社会的なつながりが断たれてしまうようなことになれば、それはもう社会的には死を迎えたここと同じという。また、文化的な潤いに乏しい、ただ医療機器に囲まれたような環境では、患者は肉体的な死の以前に、文化的な面での死を味わうことになる。
 もちろん、日本の医療技術の進歩は目覚ましく、日本人の平均寿命は毎年世界一を続けている。しかし、これからの日本医療の大きな課題として、肉体的な延命とともに、心理的、社会的、文化的な側面を含めた、いわば人間としての総体的延命を目指す医療の在り方が問われている。最後まで患者の生命や生活の質を高めながら、生きがいを感じられる延命が望ましいと考える。

 たとえ死が目前に迫っていても、残された時間を積極的に生き抜いた人物像の一つに、黒澤明監督の映画『生きる』がある。
 この映画の主人公は、市役所の職員として定年間近まで、すべて事なかれ主義で過ごしてきた。ところが偶然、自分が癌であと半年の命しかないことを知る。彼はそれまでの六十年近くを、本当の意味で生きてこなかったことを悟る。その反省から、せめて生涯の最後の半年間を人間らしく生きたいと思い、小さな児童公園造りに執念を燃やす。彼の唯一の生きがいとなった公園は、多くの困難の末に、ようやく出来上がる。
 ラストに近いシーンは特に印象的だった。夜更けの雪があたり一面に降り積もっていく中で、彼は完成した公園のブランコに独り揺られながら、静かに息を引き取る。このシーンは妻を亡くし一人暮らしの拙僧にとっては、身につまされる思いであった。
 彼は自分の死が迫りくる中で、初めて他者へ愛を捧げる喜びを知り、深い満足感に包まれて亡くなった。逆説的であるが、この映画の主人公は、死に直面することによって、初めてより良く「生きる」ことができたといえる。


◎ホスピスについて
 今回は、既に述べているが、重要なことなので、表現を変えて再度簡単に話すことにする。
 ホスピスという言葉は、本来は主に末期癌患者のための様々な援助プログラムのための総称を意味する。もう治る見込みの亡くなった人が、最後まで心豊かに充実した生を送れるように、いわば、よりよく「生きる」ために行う援助のすべてを指している。決して単なる「死に場所」などではない。
 しかしながら、日本では、ホスピスという言葉を病院から独立した、末期患者のための施設として使っている。そして、現在のところ、病院内の末期癌患者のためにケアするところを、緩和ケア病棟と呼ぶ。癌の様々な苦痛を除去するために、職種の異なる医師、看護師、管理栄養士、理学療法士、作業療法士、臨床心理士、ソーシャルワーカー、ボランティアなどが共同で患者のケアに当たるグループのことを、緩和ケア・チームとも呼んでいる。
 日本のホスピスは、癌患者とエイズ患者のみを対象とすると定められていて、他の難病の患者や末期状態にある、癌ではない患者へのケアは行われていない。
 ホスピスにおいて強調されることは、苦痛の緩和である。患者の生命の質を重視するという思想が流れている。人間の生命は、時間の長さのみによって測られるものではなく、その意味や価値、暖かく深い人間的な出会いを体験できるかどうかなど、質的な要素によっても評価されなければならないと考える。生命の質を無視した単なる延命は、死へのプロセスを引き延ばすことにしかならないであろう。患者は、冷たい機器に囲まれて、ただ肉体的に長く生き続けるよりも、たとえ短くても最後まで意識と尊厳を保って自分なりの死を全うする道を選ぶのではないだろうか。
 人間らしく積極的に生きるために必要なのは、まず苦痛の緩和である。癌による疼痛は一般的に極めて強く、自然に緩和されることはほとんどない。しかも治療のために耐え忍ぶ苦痛とは違って、苦しみに積極的な意味を見出すことはできない。しかし現在、痛みのほぼ九十パーセントまで緩和できるようになっている。
 自宅での死を願っていた妻を緩和ケア病棟に入院させた最も大きな理由は、癌特有の疼痛が来た場合に備えてのことであったが、結果として疼痛は思ったほど激しくはなく、むしろ腹水による苦痛の方が大変だった。しかし、先に述べたとおり末期医療体制の完備した緩和ケア病棟で人生の終焉を迎えさせた選択は妥当であったと今でも思っている。
 もし拙僧が末期の癌になったら必ず緩和ケア病棟に入院するように子供たちに頼んでおきたい。そして「尊厳死の宣言書」のとおり人生の終焉を迎えたい。


◎葬儀について
 今回は、葬儀について考えてみよう。
 葬儀とは、葬送儀礼を略した言葉であり、人の死を弔うために行う際儀である。
 葬儀の様式には、それを行う人たちの死生観、宗教観が深く関わっており、宗教の違いがそのまま葬儀の様式の違いになる。
 わが国で行われている葬儀の様式は、仏教式が九割以上を占め、神道、キリスト教が数パーセント、無宗教によるものは増加傾向にあるとはいえ微々たるものである。
 また葬儀は故人のためでなく、残されたもののために行われるという意味合いも強くある。残された人々が人の死をいかに心の中で受けとめ、位置付け、そして処理するか、これを行うための援助となる儀式が葬儀である。
 次に葬儀の規模等からの区分には、国葬、一般葬、社葬、合同葬、福祉葬、直葬、密葬、家族葬などがあるが、それぞれの内容説明は割愛する。

 余談であるが、小生は青春期の頃高倉健の寡黙な男っぽさに陶酔したものだが、その彼も昨日亡くなったという報道を聞いた。報道では、「高倉健は素晴らしい演技で国境と言葉を超えてすべての観客を感動させた」といっていたが、小生は観客が彼に熱狂したのは演技ではなく彼の風貌と全人格から滲み出る人間的な魅力だと思っている。彼の葬儀については家族などの近親者のみで密葬という名目で執り行われたようである。
 密葬とは、本葬などをする前に、死者の家族や、ごく身近な親類、親密な友人のみで小規模に行われる葬儀のことである。しかし、高倉健の事務所筋の話では別途本葬あるいは告別式に類したものは行われないとのことである。そういうことであれば、彼の葬儀は、家族葬の範疇に入る。最近、家族葬と密葬が混同されている感があるが、両者は同義でないので、関係者は正しい認識を持ってほしいものである。

 拙僧の葬儀は、亡き妻に合わせて家族葬とすべく、近くの葬祭場の外交員を通じて今から子供たちにお願いしている。なぜならば、義理や社交辞令的な会葬を心良しとしないから家族葬で十分である。

 さらに、蛇足ではあるが、亡き妻の臨終直後の穏やかな顔のことは既に述べたが、その棺を病院から自宅前を経由してそのまま斎場の保管場所に収められた。斎場の担当者と翌日に行われる通夜、葬儀等について打ち合わせがあった際、死に化粧(エンゼルメイク)をどうするか尋ねられた。私が喪主になって実施するのは初めてのことであるので、一般的にはどうかと尋ねたら約九割の遺族はエンゼルメイクを実施するとのことであった。担当者曰く「御遺体のメイクアップは、瞼を閉じた顔をバランスよく整え、顔の美しさは口元で決まりますので専門の者はそのあたりを十分考慮し、納得のいくエンゼルメイクを施します」とのことであった。
 あの笑みをたたえた顔が更に一層際立つ顔になることを期待してお願いすることにした。ところが、翌日の通夜前エンゼルメイクを施した妻の顔を棺ののぞき窓から見た瞬間驚いた。あの臨終直後の顔はどこへやら、ファンデーションや濃厚な口紅を塗りたくった引き目のきつい顔がそこにあった。出来上がりを確認して依頼できる性格のものではないが、あまりにひどいエンゼルメイクになってしまい、ただただ心の中で妻に侘びた。
 病院で臨終直後の穏やかな顔を見た者は、娘と二人の孫と私の四人であるが、二人の孫は分かるはずもない幼児であるので、看取りの同志である娘と私だけがそれを知っている。最近は、男性でもかなりの方がエンゼルメイクをするようであるが、拙僧が死んだ時は、絶対葬儀業者に顔をいじらせないようにしてほしい。この件は、家族葬の件と併せて子供たちに強くお願いしておく。

 最後に僧侶としての立場から一言心構えを述べて結びとしたい。
 人が死んだらどこへ行くか、それは誰にもわからない。ただ、宗教家、哲学者、賢人等が幾世代にもわたって想像をめぐらした結果、死後の可能性として考えられることは、結局のところ三つしかなかった。それは「無」「死後の世界」「生まれ変わり」の三つである。「死後の世界」は、地獄と極楽に象徴される仏教の世界であり、「生まれ変わり」の信仰はインドで今も根強い。
 僧侶が葬儀で死者に引導を渡す行為は、死後の世界が「無」ということであっても、残された遺族等の立場からすれば、遺族等のグリーフワーク(悲しみをいやすこと)になる。また、死後の世界が有るということになれば、死者にとっても遺族にとっても、その葬儀が共に有効で有意義なものになる。
 以上要するに、僧侶は死者に引導を渡す重要な任務に加え、遺された遺族等と死別の悲しみを共感し、慰めるとともに、心の整理を支援するという重要な仕事がある。したがって、そのためには自らを律し研鑽修行して自己のポテンシャルを高め、周囲から尊敬される存在になるよう努めなければならないし、そうなるべく努力する所存である。



(今後の法話予定)
◎死について
◎人生の意味と目的について
◎生き甲斐について
◎終活について
◎僧侶の任務について
◎禅について
◎五観の偈について
◎愛語について
◎少欲知足について
◎諸行無常について
◎コへレトの言葉について
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